安心立命

よく安心立命という言葉があるが、これは精神的の面に限るように世人は思っているようだが、この考え方は大きな間違であって、真の安心立命とは物質も伴わなくてはならないのは勿論である。考えてもみるがいい、病気、貧乏、争いの三つの災厄の内の、仮え一つでもあるとしたら、何処に安心があるであろうかという事である。俺は一生涯病気の心配はない。貧乏になりっこはない。争いを起すような事もないという自信が有ててこそ、真の安心立命は得らるるのである。処がそのような三拍子揃うなど、今の世の中では到底夢でしかあるまい。そんな人は恐らく世界中只の一人もないといってよかろう。

先ず世間をみればよく分る如く、何事も思うようにならない。嫌な事は次々降って来る。好いことなどは滅多に来ない。全くこの世の中は地獄その儘だ。第一健康にしてもそうだ。いつ何時病気に罹るか分らない。一寸した風邪を引いても、簡単に治ることもあれば治らないこともあるし、拗らしたり大病の前兆になることさえあるのだから、風邪位などといって安心してはいられない。又医学でいっている通り黴菌はそこら中ウヨウヨしているから、いつ何時伝染病や結核菌が飛込むか分らない。それが為当局でも医学衛生を喧しくいい、清潔にせよ暴飲暴食をするな、外出から帰ったら含嗽をしろ、食事の前は手を洗え、食物に注意せよなど、何だかんだと煩さい程注意を与えている。それら悉くを信ずるとしたら現代社会生活は全く恐怖の渦の中にいるようなものである。

勿論貧乏も争いも、その殆どは金銭問題が主となっており、その原因が亦病気であるから、どうしても無病息災、真の健康人にならなければ、絶対安心は出来ないのは言うまでもない。しかし世人はそんなことは到底出来ない相談でしかないと思うであろうが、それが立派に出来るとしたら、大変な福音であろう。処が必ず出来るのだから大したものである。その為に現われたのが我救世(メシヤ)教であり、救世教を措いては世の中に決してないことを断言するのである。

(栄光百八十六号 昭和二十七年十二月十日)