医学と浄霊

本教が在来の宗教とは、根本的に異う事を常に私は筆でかき、口で解説しているので、信者としても其意味を、絶えず世間へ宣伝しているであろうが、何しろ世の中は広いから一般に知れ渡るのは容易な事ではない。而も智識人に至っては、殊に信じようとしない。彼等は宗教とさえ言えば、十把一紮(ヒトカラゲ)に見る癖があり、本教を目する場合も、右の観念が邪魔をして、真相など分る筈はないのである。

ではどの点が異っているかというと、世間でも知っている通り、本教が最も力を入れているのが病気治しである。之に対し一般はどういう解釈をしているかというと、斯うであろう。どうせ信仰的に治すのだから、先ず病人に対って暗示を与える。貴方の病気は医者や薬では治らない。神様に御願いすれば屹度治る。元々病気は罪穢の為であるから、私は貴方に代って神様にお詫びをして上げるから大丈夫ですと言われるので、迷える小羊は丸呑みにして有難がり信じて了う。という精神作用の働きによって治るのだから、或種の病気に限る。例えば精神的疾患である神経衰弱とか、又は外部的疾患である神経痛、リョウマチの如きものや、首肩の凝り等、恰度マッサージか按摩療法的に思っている。だから肺、心臓、胃腸病の如き、内臓の病気は駄目だから、斯ういう本格的病気は、進歩した現代医学に頼るより外ないとしている。先ず之が一般人の考え方であろう。

処が吾々からみると、之が大変な誤りで寧ろ反対である。それを詳しくかいてみるが、本教の治病方法は勿論浄霊であるが、之は患者の身体には全然触れず、数尺離れて只掌を翳すだけなので、之を見たら誰もは、彼んな事で病気が治って堪るものか、人を馬鹿にするにも程がある。全く迷信に違いないと決めて了うのである。

処が之で重難病がドシドシ治るのだから、実に摩訶不思議だ。事実治病効果は医学の一に対し、浄霊の方は百といっても過言ではあるまい。而も医学の方はヤレ外科とか、内科、脳神経科、婦人科、小児科等々、夫々専門に分れているに反し、吾々の方は精神的疾患でも、機質的疾患でも、病気と名のつく病気は悉く浄霊一本で治して了う。

そうして今日一般の人は、病気に罹るや信者は別だが、初めから吾々の方へ来る者は一人もあるまい。先ずお医者に行くのが常識である。処が少し拗れると仲々思うように治らないので、医者を取替えたり、博士や大病院へ行ったりする。それでも治らない結果、迷いに迷って民間療法や在来の神信心と来るのが御定法である。それでも治らないばかりか、段々悪くなる一方なので、どうしていいか分らなくなり、文字通り進退谷って了う。其結果藁でも掴みたい心境になった時、偶々本教の話を聞くが、今迄色々な信仰に懲りているし、おまけに新聞雑誌などのデマやインチキ宗教に引っ掛かるな、などの注意が頭にコビリついているので、一時は躊躇するが、熱心な勧めと堪えられぬ病苦とで意を決し、兎も角試してみようと思い、疑い疑い来る人が殆んどである。そこで愈々来て見ると、之はこれは成程看板は、世界メシヤ教何々支部、何々分所などと大きな名前が出ているが、家はとみれば精々サラリーマン程度の、一寸した住宅なのでガッカリする。といって折角訪ねて来て帰るのも残念だと、思い切って小さな門から格子戸を潜ると、之は又二度ガッカリ、精々二間か三間位の古ぼけた部屋で、先生はと見れば玄関子兼帯と来ている。そこで御指図通り煎餅蒲団へ座り、茲でヤット先生の御顔を拝見に及ぶと之又風采の上らぬ事夥しい、何しろサラリーマン、小商人、農民や職工上りなどの人が多いので、其言葉も智識人らしからず、其上今迄聴いた事もないような突飛な事をいう。薬は毒だ、医者が病気を作るなどの御託宣と来るので、唖然として了い、何が何だか分らなくなる。そこで愈々御浄霊となると、先生は機械らしいものは何にも用いず、只空間に手を翳すだけである。之を見た患者は何しろ子供の時から、病気は薬と機械で治すものと教育されてをり、空間は空気だけで、何もないと思っているから、空中へ掌が浮んだだけで、相手の難病が治るなどとは余りに超科学で、丸で狐に撮まれたようだ、という訳で精神的影響など薬にしたくもない。寧ろ逆に疑いが増すばかりである。

それに引き換え医学の方はどうであろうかをかいてみるが、何しろ先進文明国始め、日本に於ても国家的に医学を援助奨励し、大学教育迄が医学を重要視してをり、全世界の科学者は何百年も前から専心、研究に研究を尽している結果、益々微に入り細に渉って進歩し、発達して来たのであるから、人間は病気は医者と薬より外治るものはないと信じ切っている。としたら精神的にいっても、百パーセント医学の方が有利であり、而も大病院などの、アノ大ビルかホテルの如き豪壮建築、内部の完備せる施設、専門々々の有名な博士の名を連ねた看板、之が待合室の壁に御神体の如く輝いており、白衣の天使は忙しそうに、街路の如き長廊下を右往左往している。之を見ただけでどんな人でも度胆を抜かれ、成程医学は進歩したもんだ、之ではどんな病気でも治らない事はないと、腹の底から感嘆し、信じて了うのである。

以上は医学の素晴しさと、吾々の方の貧弱さを比べてみたのである。処がどうだ、其治病効果たるや、最初にもかいた通り全然逆であるのは、医学で見離した病人がドシドシ治ってゆく、全く廿世紀の奇蹟と言うより外言葉はない。としたら茲で考えなくてはならない事は、若し医学で病気が真に治るとしたら、それで済んで了うから、科学性もない不安な民間療法や信仰療法などに、大切な生命を委せる馬鹿はない筈である。にも拘わらず事実は医学以外の療法が相変らず繁昌している。特に本教の如きは浄霊の効果と、凡てが正確なので、心底から信じて安心し、医薬から離れて了う人は、日に月に激増しつつあるのである。としたら医師諸君も、大いに考えざるを得ないであろう。そうして此文の要点である信仰療法は精神的影響などは、全然無いという一事を知らせたいのである。

(栄光百四十二号 昭和二十七年二月六日)