吾々は現代医学の盲点を常に指摘し、警告を与えているが、事実医療による被害者の如何に悲惨なるかは、誰も気付かないのであるから大問題である。左の例などは到底読むに堪えられない程のものである。此感謝報告をかいたのは、シベリヤ帰りの元軍務に携った人で、帰国後最初軽い病気に罹った処、其原因は勿論、日本を出発の際の種々の注射の薬毒にある事は勿論だが、そんな事は全然分らない医師は、出来るだけの治療を施したが、漸次悪化するばかりなので、患者は迷いに迷い、医師や病院を取換えてはみても、お定まりの手術、注射、服薬等あらん限りの療法を受け、金の続く限りやってみたが、反って悪くなるばかりなので、絶望の極一家心中迄企てたというのであるから、其苦悩目に見ゆるようである。
そこで若し此文を医師が読んだとしたら、果してどう思うであろうか。まさか自分達の行っている医療の結果とは想像もつかないであろうが、右の如き生きた事実はどうしようもない。としたら実に由々しき大問題であろう。又普通人が之を読んだら、憤激を禁じ得ないのが当然であるが、恐らくそう思う者は一人もあるまい。何となれば現代医学に盲信し切っているからである。そこで吾々は此迷信を打破し、大いに目醒めさせんとしているが、彼等は反対に吾々の方を迷信とするのであるから、問題は深刻である。処が事実は此例と同じような医療被害者が到る処に満ちてをり、全国では何万何十万に上るか分らない程であろう。としたら何と悲惨な世の中ではあるまいか、忌憚なく言えば、戦争よりも寧ろ恐ろしい位である。成程戦争の恐るべきは誰も知っているから、世界を挙げて其防止に努力するが、此方は反対に可と信じ切っているのであるから、問題は容易ならぬものがある。
此報告をかいた本人は結局本教によって、完全に救われたからいいようなものの、若し本教を知らなかったとしたら、今頃は一家揃って彼の世行となり、地獄で苦しんでいるに相違なかろう。としたら此様な医学の過誤はいつ迄続くかという事であるが、最早其心配の要はない。神の大愛は之に対して、決定的解決をされ給う時が来たのであるから、先ず其警鐘の一歩としての此文と、そうして此実例と思って貰いたいのである。
これぞ救い
身を以て体験した医学の恐しさ
東京都 M・M
シベリヤの捕虜生活の苦難の道を辿り、帰国の喜びも束の問、病魔におそわれ生きる希望もなく、此世に神は絶対になきものと一家心中まで覚悟した私の目前に、救世の光は輝き始めたのです。疑いつつうけた浄霊に、奇しくも再起の喜びを得、感謝感激の余り拙文も省みず、御礼申し上げます。
想い起せば六年前、終戦と同時に、緑鬱蒼と生茂るシベリヤの奥地に連行され想像だもしなかった捕虜生活が始まったのです。九月中旬早や降雪、気温は下り毎食飯盒の蓋一杯に高粱或は玉蜀黍等へ塩を入れて炊いたもの、塩鰊のスープ塩鰈等が渡され、馴ぬ食物に始めは喉を通らなかったのが何時 しか、やっと喉を通るようになり、捕虜生活も板について来た一〇月、一一月には野菜の配給は少しもなく、手あたり次第採って食べた青草も枯野原と化し雪にとざされてしまうと同時に、食糧不足、栄養失調の為、体の自由がきかなくなり、次第に寒さ加り、肉も凍る厳寒にたえかねてバタバタ倒れてゆきました。「皆頑張ろう、忍耐だ、我慢だ、帰るまでは」を合言葉に頑張りぬいていた気力も潰え果て、妻を子をそして故郷に思いを馳せつつ異郷の空に儚なくも一人、二人と散 ってゆくのでした。そして五、六百人収容の病院で日に一割以上の死亡者を出す様になり、死屍は屋外の一ヵ所に集められ、それがカチカチに凍ると軍医がタポール(マサカリ)を持って来て頭から腹まで立割り、何処を調べるでもなく解剖した事にして、死亡診断書を書いて行って仕舞う。後の死体を日本人の兵隊が南京袋に詰めて馬橇で運び各処に掘られた穴に投込む由、同胞のこの痛々しい姿に、誰が暗涙にむせばざる人があるでしょうか。この惨劇に目をおおいつつ、こんな事が赦されて神が仏があるのだろうか。寂寞さを感じつつも、一日千秋の思いで無事の復員を待っているだろう家族を思うと、崩れゆく心に鞭打って森林の奥深く膝まで没する雪の中で枝をひき、伐材の作業に頑張り続けました。
苦労を重ねて満二年、やっとシベリヤの山奥にも民主グループの声高く、作業も、食糧も楽しくなった時、ハラショラボータ(作業良好)として政治部員より帰国の内命を受け、患者の中に加えられ、懐しの故郷へ元気で帰る事が出来ました。しかし長いシベリヤ生活に病気一つしなかった私が故郷へ帰りやれやれと腰を伸したのも束の間、二二年九月に帰り同年一二月には左鼠蹊腺が腫れ上り、三鷹診療所にて第四種性病だろうとの診断早速硼酸湿布、ズルファミンの服薬致し、一週間で散って了ったとホッと一息致しましたら、翌年一月尿道と直腸の間に穴が開き、小便の半分は肛門へ廻る様になり、慶応病院へ通院中二月には左睾丸が腫れ、激痛加わり、三週間程病室の空くのを待って手術(切取)致しました。此間ペニシリン三〇万単位五本、ザルブロ二〇cc一〇本注射致しました。手術の疵口も治らぬ中に、左湿性胸膜となり、ザルブロ三〇本射ち、三ヵ月で治癒の形をとり勤めに出て一ヵ月、今度は右睾丸が腫れ上り、片方だけは何とかして助けたいと、ペニシリン三〇万単位五本、ザルブロ一五本注射しましたが痛みは益々加わり、玉子大に腫れ、遂に又手術を言い渡されました。手術せず治るものならと、ダイヤジン五〇粒程服みましたが、やはり腫れと痛みは退かず止むをえず入院手術を受けました。幸い子供は男児が一人ありましたものの、無慙に切取られた睾丸を見て一生子供は一人より授からぬかと思うと、何時しかハラハラと頬を濡らす涙を止め様もありませんでした。三ヵ月して又左胸膜が再発六ヵ月休養して勤めに出て五ヵ月、又しても再発、医師より絶対安静を申し渡され遂に立つ事の出来ぬ体となり、二四年一二月には右肺も侵され、同時に腸結核も発病せし診断を受けた時は、一時に希望も消え、只々悲歎の涙に暮れました。
近所の子供は「肺病肺病」と寄付かず、罪なき子まで相手にされず、一人淋しく遊ぶ姿を見ては、父故にと思えば吾運命に女々しく泣くのみ。あの捕虜の苦しみも此子の為に親子しての楽しい生活を夢見つつ、頑張りぬいて来たのではないか生きたい。もう一度元気になりたい。再起を念願して最後の財布もはたきストレプトマイシン五本を入手致し、一日に二回の注射で解熱し始め、ザルブロ、ザルピタール静脈注射八〇本にて二五年三月四月と発熱もなく、鳴呼之で助かった、後は恢復を待つのみと夫婦手を取って嬉し泣きに泣きました。が又々五月発熱腸は痛み、下痢は増し、背中胸はたえ難き激痛、氷枕ははなされず、右肺に空洞が出来手術するより方法なしといわれ、打のめされた様な衝動を抑え、入院を御願い致しましたが、何時まで待っても部屋は空きません。
最早や恢復の望みも夢、一日も早く死のう、皆さんの御迷惑を無くせねば申し訳ない。一枚二枚と手放された着物も今は薬代に変るものさえなく、病苦と経済苦とにせめられて前途は死あるのみ、それより唯自殺の機会を待ちました。
「父を許してくれ」も心の中、青酸加里を入れたアンパン を手に「坊や良い物上げるよ」と差出せば、飛び来たり喜ぶ吾子。皆さん如何に心を鬼にしても渡す事が出来ましょうか。手は震え「待て」と叫ぶ心の声、ハッと吾に帰る悪夢の様な 瞬間から呼び覚された時罪深さに後から後からこみ上る嗚咽。今日は死のう、明日は死のう、と準備し乍らも無心に微笑で眠り居る子供の顔を見ると決心も鈍り、もう一日もう一日親の務めを果してと夫婦して涙に暮れました。死を覚悟し乍ら生延びたい、生への欲望故にパスを服み続けて居りました。
二六年三月一六日実家の前のSさんが、母より、「Mが死にそうです、何とか助けて下さいと依頼された」と来宅下さいました。そして光明如来様の御話を御聞かせ下さいましたが、シベリヤ生活より神仏に合掌致す事が出来なくなっておりました私には、尊き御話も信ずる事は出来ず、夜を徹してお話し下さるSさんの誠心に動かされ「どうせ死を覚悟していた私です。薬を止めるのはいと易き事です。夫では信じなくてもよいでしょうか」と言った時は夜はしらじらと明け初めていました。「結構です。只御浄霊を頂くと種々変化がありますが、其時驚いて間違った手当をして自ら墓穴を掘らない様に」と申されました。助かるものなら今一度元気になりたい子供の為に!
御浄霊を頂きまして何時になくグッスリ眠られ、翌朝は床の上に起上り食事も出来ました。今迄は呼吸苦しく、便所に行くのもやっとだったのに、二〇分三〇分過ぎても疲れる事なく不思議だ不思議だと妻と話合って居りました。それより毎日御浄霊を受け、一週間後に庭へ散歩も出来る程になり鳴呼、助かった業病が治る、きっと治して頂けると感じ、心より唯々有難うございました、と合掌致す事が出来る様になりました。嘔吐、下痢の激しい浄化も三、四回あり、日増に元気が加って参りました。
有難い御守様を頂きなさいとSさんが、妻の御礼を貸して下さり、御厚志により夫妻そろって教修を受けさせて頂ける様になり、T町の教修会場へ行きました。行く時はフラッとしていた体も、一日の教修を終り、一歩外にふみ出せば足がシャンとして歩みの軽き事、不思議!駅の階段さえ元気の時と変らぬ様に昇降出来ました。有難い御守護と感謝申し上げるばかりでした。三日間終始涙で拝聴致し、御守様を拝受致します時は、手は震え、神人合一、観念の神にはあらず、現実の神、神は此の世に厳然とおられたのだ、穢れ多き吾身にも御分霊が宿らせ給う、随喜の涙にひれふしてしまいました。「もう二度と死ぬなんて考えを起しません、お救い下さい」と涙で後の声は消え、Sさんがお目出度うと申された時は声も出ませんでした。なみいる方々も皆涙を流して喜んで下さいました。
戦争、捕虜生活、病床、幾度か吾子と共に死を決した絶望のドン底の姿、走馬灯の様に過ぎし日がうかんでくる。真理を知らぬが為に我と吾身をさいなんでいた過去、最初は鼠蹊腺部が腫れた丈であるのに浄化停止の為に再発に再発を重ね肉を切り、医師から見離されるまで医薬に対する不信が何故おきなかったのだろうか。犯罪、戦慄すべき戦も、元を正せば薬剤の為とは。世界人類の知らざる処に不幸の種が根強くはられている。判れば判る程一つ一つが驚異でした。今此処に真理は開明され、不幸を生んだ文明は幸福を生む文明と切換えられる時期が到来している事、真善美調和した天国の出現……苦しみが大きかった丈に救われし喜びも又一人でした。
入信翌日より三人、五人と毎日御浄霊に飛び廻らせて頂いており、全く夢の様でございます。それよりは一途に光明如来様に御縋り申し上げ、度々御浄化を頂き、日増に健康になりつつあります。K支部の旬並祭、月並祭にはかかさず参拝致しおりますが、その日必ず出掛ける前一回二回と嘔吐の浄化を頂き、罪穢多き身を浄めて御詣りさせて頂けます御恵みに、その度毎に明主様への感謝を深めさせて頂いております。
五月一日には熱海へ、七月一日には強羅へ御参拝させて頂き、親しく明主様の御顔を拝し、地獄世界より救われしこの身の幸せを心より感謝申し上げました。あれ程無神論者で疑った頑固な私が申訳なく、感慨無量で御座居ました。此絶大なる救世の御力を未だ知らざる世の人々に一人でも多く、一日でも早くお知らせ申し上げねばと固く固く明主様にお誓い申し上げた次第でございます。
(栄光百四十号 昭和二十七年一月二十三日)