沢山の御蔭話を見るとしたら、誰しも実に素晴しい何物かを、感受せずには居れないであろう。恐らく之程の救いの力は、未だ嘗て世界にないからである。そこで其中の病気に関した事のみをかいてみるが、先ず現代医学というものの実体である。現在凡ゆる病人は、現代医学より外に安心して病気を委せ得るものはないと信じ切っている心理状態で、殆んど信仰とさえ思える程である。それ処ではない、政府当局も同様、現代医学以上のものはないと決めて了って、毎年巨額の国費を投じ、能う限りの奨励をしている位であるから、医学以外如何に効果あるものがあっても、科学性がないという理由で、成丈触れないように勧める方針を採っている。此様な訳だから、無論国民もそれを信じ切っている以上、精神作用からいっても、医療を受ける場合、大いに治るべき筈だが、事実は案外であるのは、誰しも経験する処であろう。
それはそれとして、今本紙毎号満載しているお蔭話である。其中のどれを見ても、発病するや最初は、一人の例外なく医師の診療を受けるが、其結果意外にも、成程一時は快くなるので、ヤレヤレ、と安心していると、恰度抑えつけた何かが反撥するかのように必ず再発する。そうかと思えば、何程治療を受けても、最初から少しも効果がない処か、段々悪化する事実である。此場合普通常識から考えても、医療に疑念を起す筈だが、殆んどの患者はそうは思わない処か、どこ迄も縋って離れない。中には遂々死の一歩手前にまで来て漸く疑い始め、他の療法を求める者もあるが、こういう人は運のいい方で、酷いのになると死んでも眼が醒めず、之も寿命であるといって、家族も皆の者も諦めて了う。処がもっと酷いのになると、兄弟などが年の若いのに次々死んでゆき、それが数人に及ぶもまだ眼が醒めないで医療に頼るが、それは斯ういう訳である。最初死んだ一人に驚いて、病に対する臆病感が強くなり、此次病人が出来たら、手遅れになっては大変だと思うと共に、出来るだけ平常から衛生に注意し、ヤレ栄養、何々注射等を行うので、反って病弱となり、早死するという訳である。何しろ先祖代々からも、子供の時からも、病気は医者と薬に限るものと、根強く教育され、其観念が沁み込んでいる以上、思うように治らないのは、医師の診立てが違うからだろうとか、医師が下手な為だろうなどと考え、医師を取換えたり、大病院へ行ったりする。併し治らないのは何処へ行っても同様で、病は漸次悪化してゆくが、勿論之に気の付く筈もなく、結局絶対絶命の処迄追い込まれて了う。そうして一番悪いのは薬であるが、其薬を一日も放す事が出来ないので、緩慢ながら慢性薬毒病患者となり、遂に危険の処迄来るので、気の利いた人は茲で初めて医薬に疑問を起すのだが、平常から前述の如く、政府や専門家によって、医学以外の民間療法や信仰療法は、信用してはならないと釘を刺されているので、随分躊躇逡巡するが、何しろ前述のような有様となった以上、此儘続けても駄目だと漸く覚った頃、医師の方も匙を投げるので、其際本教の話を聞き、救いを求めに来るのである。然し最初は誰もオッカナ吃驚で疑い疑い浄霊を受けるが、すると忽ち形勢一変快方に向い、昨日の悲観が今日の楽観と変り、余りの不思議さに、患者は戸迷いする位である。処が現実はズンズン快くなってゆくので、茲に至って如何なる無神論者も兜を脱がざるを得ない事になるのである。
従って右の如き、本教浄霊の真相を一般人に、一日も早く知らしてやりたいと、お蔭話を読む毎に吾々は痛切に感じるのである。
(栄光百二十五号 昭和二十六年十月十日)