宗教文明時代(上)

私はメシヤ教を創立し、爾来孜々(シシ)として宗教活動に邁進しつつあるのは、言う迄もなく人類救済の大目的達成の為であるが、それだけならば在来の宗教も唱えた処で、今更事新しく言う必要はないが、本当をいえば一般人の頭脳に沁み込んでいる既成宗教観を抜いて了わなければ、本教の実体は到底掴み得ないのである。というのは現在迄の宗教も科学も、凡ゆる文化の水準を遙かに超越している処の超宗教であるからで、適切な名称さえ見付け難いのである。強いて言えば、先ず宗教を主眼として創造される処の、宗教文明の発案者といってもよかろう。

それに就て、私が今かいている一大著述であるが、之は文明の創造という題名の下に、新しい文明世界の設計書ともいうべきものであって、此著述が全世界の有識者に理解されるとしたら、既成文明は百八十度の転換を余儀なくされるであろうから、全く明日の文明世界の解説書でもある。従って此意味が明かにされると共に、全世界は此大目標に向って前進を開始するであろう事は、只時の問題でしかあるまい。というのは日本の識者も、全世界の識者も精神異常者でない限り、全面的に共感を与えない訳にはゆかないからである。

私はいつもいう通り、現在の文化は之程驚異的進歩を遂げたに拘わらず、人類の幸福がそれに伴わないのはどういう訳であるかという疑問である。然し現実はそれ処か寧ろ幸福とは逆に、全人類は今や一大不幸の坩堝(ルツボ)に投げ込まれようとしている寸前ではあるまいか。としたら此様な悲劇の原因は、言わずと知れた文明の担当者や指導者が、今日迄大いなる過ちを犯して来たからである。従って先ず此点を充分検討し解剖して、其根本的過ちを浮び上らせ、茲に人類共同の精神を以て、文明の立直しに取掛るべきではなかろうか。

処が、其理屈は分るであろうし、誰も否定する者はなかろうが、肝腎なのは其実現である。之こそ進歩した現代文化を以てしても、到底可能性のない事は今迄の経験によっても明かである。何しろ昔から宗教家、哲学者、教育家等幾多の傑出した人達が、其理想の下に努力精進して来たに拘わらず、今以て何等の見込すら立たない現状であるからである。見よ今迄の方法はと言えば、学問の力とそうして宗教の力との二つであった。前者は已に言い尽したから、後者に就ていうが、今日迄現われた大宗教家としては基督、釈迦、マホメットの三大聖者であり、又他の多数の偉大なる宗教家達もあったが、時期の関係からでもあろうが其発揮された力には限度があった。とはいうものの其当時は固より、今日に到る迄大多数の人類は、其人達を介して、神仏の恩恵を受け、大いに救われては来たが、私が現在唱える処の宗教文明という如き、全人類的なスケールの大きいものではなかったのである。としたら私の救世的目的の、如何に規模の大であるかが想像されるであろう。

そこで私がいつもいう通り、既成文化の根本である。それは言う迄もなく唯物面を主とし、精神面を従とされた建前のもので言い換えれば学問を第一義とし、宗教を第二義として来た事である。従って只学問さえ進歩させれば、人類の幸福は達し得られるものと固く信じ、他を顧りみる余裕すらなく、馬車馬的に進んで来たのである。としたら、如何に根本的一大誤謬に陥っていたかが分るであろう。其結果現在の如き不幸製造の文明が出来て了ったのである。そこへ現われたのが我救世教であるから、本教出現の理由こそ全く暗黒無明の世界に、一大光明が輝き初めたのであって、現わるべき天の時が来て現われたのであるから、人類挙って歓ぶべき一大慶事であろう。それに就ては先ず私という者を知る必要があるから、それを茲にかいてみるが、一体私という人間は、何の理由によって此世の中に生れたかであるが、私の前半生は平凡なものであった。然し一度宗教人となるや、凡てが一変して了ったのである。というのは何物か分らないが、私を狙って何だか目には見えないが、玉のようなものを投げかけた、と思うや、其玉が私の腹の真中へ鎮座して了ったのである。それが今から約三十年位前であった。処が不思議なる哉、其玉に紐が付いているらしく、それを誰かが自由自在に引張ったり、緩めたりしているのだ、と同時に私の自由は取上げられて了ったのである。自分が思うように何かをしようとすると、紐の奴引張っていてそうはさせない。そうかと思うと思いもよらない方へ紐が引張ると見えて、其方向へ運ばせられる。実に不思議だ、恰度傀儡(カイライ)師に操られている私は人形でしかない。

そればかりではない。其頃から私は今迄知らなかった色々な事が判るのだ、初めはそうでもなかったが、時の進むに従って、それが益々著しくなるのだ。以前私は学んで知るを人智といい、学ばずして知るを神智という事を聞いた事があるが、そうだ之だなと思った。確かに神智である。何かに打つかるや其理由も結果もすぐ判る、考える暇もない程だ。といっても必要な事のみに限るのだから妙だ。信者から色々な質問を受けるが、咄嗟に口をついて出てくる。そういう時は自分の言葉で自分が教えられるのだから面白い。特に一番肝腎である人間の健康に就ての事柄は、全般に渉って徹底的に判って了った。之は私の医学に関しての解説を読んだ人なら直に肯くであろう。処がそればかりではない、私が現代文明の凡ゆる面を観る時、医学などは子供騙し位にしか思えない。政治でも、経済でも教育でも、先ず小学程度の腕白小僧がやっている位である。只いくらかましと思うのは、芸術方面だけである。斯んな事を言うと大変な自惚と思うかも知れないが、神に在る私は、些かも嘘をいう事は出来ないから、読者は本当と思って貰いたい。而も最も重要なる事は、私は見えざる力を行使する法を授けられたので、何千何万の病人をも、大勢の信者を機関として全治させている。之はみんなの知っている通りであるが、其治り方の素晴しい事は、医学の一に対して、私の方は百に当るといっても過言ではない。又私が或計画を立て、実行に移ろうとする場合、多額の金が要るが、之も自然に過不足なく集って来るし、必要な人間は恰度いい人が来る。というような訳で前者が神智によるとしたら、後者は神力といってもよかろう。一切万事が此様な次第であるから、全く世界に前例のない私という人間である。まだ色々かきたいが、只非常に変っているという事だけを分って貰えばいいのである。

以上によって、熟々私という者を考えてみると、私は何が為に生れ、何の理由で普通人と異っているかという事である。それを茲に説明してみるが、私は今日メシヤ教なる宗教を開き、万人を救い幸福なる世界を造らんと努力しつつある。そうして本教の発展の速かなる事も異例であり、又本教位病気のよく治る宗教は、未だ嘗てない事で、全く世紀の謎と言ってよかろう。之だけをみても、其処に偉大なる何かがなくてはならない筈である。何よりもおかげ話の一齣だけをみても、其救われた本人の感謝感激、溢るる心情を思えば、涙なくしては読めないのである。

(栄光百十六号 昭和二十六年八月八日)