大光明世界の建設 観音力

人或は曰はん、観世音菩薩は、敢て、今更事新しく、知らせてくれなくても、古来、東洋諸国、併も、我日本に於ては各地に堂宇を建てて祭り、又寺院に祭り無数の人達が尊信し、礼拝して、その利益に預かって来たのではないかと、それも、一応は尤もである。

今日迄の観音信仰は、仏師、僧侶、絵師等の手に謹作されたるものであって、其仏体を介して、救はれたのであるから、謂はば、仮であって、間接的救ひであった。即ち、一部の観音力を顕はされたまでである、故に真の観音力を揮ふには、どうしても人間の現身を、機関としなければならないのである。釈迦も基督も、阿弥陀も、一度は、肉身を以て救世の業をされたやうに。

木像へ向って質問をしても答へては呉れない。痛い所を出しても御手を出して治しては呉れない。爰に、生きた人間でなくてはならない必然がある。

今日の、混沌たる世界、帰趨に迷へる人類を救ふ、空前の力が出たとて不思議がってはいけない。文化の発達は、世界を打って、一丸とされ、世界が統一されやふとする姿が、余りにもはっきりして来た、人類は、歴史と経験に捉はれ過ぎて余りに大きなものと余りに新しいものは、急に、請入(ウケイ)れ難(ガタ)い弱点を昔から持ってゐるものである。

それから、過去の聖者を崇敬し過て来た癖と、絵画や、木像を礼拝して来た癖が、あまりにも強くコビリ付いてゐるので、仮令、今観音力といふ様なものを持った人間が、顕れたといふ事を報(シラ)しても一旦は軽蔑したり、インチキ視したり、山師視したりするのも、無理はないと思ふのである。

然し人が認めやうが、認めまいが、仮令妨害しやふがしまいが、一切に頓着なく、大きな光と力は、太陽の様に、一刻一刻昇って行くのである。唯併し一時も早く素直に光に触れようとする人は、其刹那から、幸福の世界に一歩踏込んだので、永遠に、神の愛護者として霊体共に救はれる事は勿論である。

一切が世界的になった今日、聖者の印綬を帯びて現はれる者は、相応の理によって等しく世界的の大きさと其力の所有者でなくてはならない道理である。

(観音運動 昭和十年九月十五日)