本教は、自画自讃ではないが、現当利益の素晴しい事である。昔から幾多立派な宗教が生れ、今尚キリスト教、マホメット教、仏教の三大宗教を初め、有力なる宗教がそれぞれの地位を確保してゐるが、其殆んどは出発時から、精神方面の救ひを専らとして来た事は誰も知る処である。
本教は、開教後日未だ浅く、他に比べては教線甚だ微々たるものではあるが、それでも発展の速かなる事は、前例がないとさへ言はれ、注目の的になってをり、其為五月蝿い事も多いが、之も亦止むを得ない過渡期の現象であらう。といっても之は時の問題で、何れは公平なる世の批判の下に真価を認められる日の来る事は勿論である。然し本教も他の宗教と同様、教義もあれば理想もあって、精進努力しつつあるが、それに就て本教が既成宗教とは根本的に相違する点があるのをかいてみよう。此点が認識出来なければ、本教の実体は掴み得ないのである。
それは何であるかといふと、本教は現当利益が大いにある事である。それに対し有識者等が、宗教を観る場合、現当利益的宗教は低級であるとし、殆んど歯牙にかけない態度である。然らば何故そうであるかを考へてみるに、それには訳がある。今日本に於ける数ある宗教を見渡した処、世俗的のものと非世俗的のものとの二種がある。一方は例えば何々稲荷とか、何々様とか、何々明神とかいふのが、信仰の対象となってをり、之等信仰者は例外なく現当利益が目的で、理論も哲学も智性的のものはないといっていい人達で、只御利益本意であってみれば、識者からみれば愚劣で、問題視するには足らないものとしてゐる以上、現当利益追求は、直に低級信仰と決めて了ふのである。
そこで現当利益など問題にせず、教義を学問的に扱ひ、巧妙に理論付けてゐる宗教形態を高く評価する。而も相当古い歴史を有っており、その間有名な中興の祖や、幾多高徳が輩出してゐる以上、其宗教を重視するといふ訳で、之等を高級と見做すのである。要するに看板が物を言う訳である。之に対し私は卒直に批判の言葉をかいてみるが、兎も角前者の信仰は卑俗的ではあるが、事実は予想以上に一般民衆をリードしてゐる。何しろ民衆としては智的レベルが低い為理論もヘチマもない。只時々お参りに行き、何かの願望を祈願し、金銭を献げてそれで満足感に浸って来るのだから、至極簡単である。然し之等の信仰も社会人心にとって或程度のよい感化を与へてゐる事は争へない、といふのは斯ういふ信仰でも見えざるものを信ずるといふ唯心観念からである以上、唯物主義に固まったものよりは、社会上プラスになってゐるのは確かである。仮にも神仏を拝む位の心の持主であるとすれば、平気で兇悪犯罪など犯す訳はあるまいからである。
次に後者であるが、之は前者と違ひ、見えざるものは信ずべからず、見えざるものを信ずるのは悉く迷信であるとして排斥する人達で、現在有識階級に最も多いやうである。勿論唯物主義者である以上、宗教を学問的に扱ふのを可としてゐる。故に彼等は宗教を云々する場合、悉く理論化し哲学化されなければ承知しないので、吾等から観ても、其論旨なるものの多くは外皮的浅薄極まるもので、吾等を批判する場合も単なる悪口にすぎないのである。従って本当に宗教を批判するとしては、其宗教に深く没入し、内容に向って鋭い眼を以て、其実体を見極めるべきである。そうしてどこ迄も主観を捨て去り、白紙となって批判すべきである。由来宗教の本質は、外容的のものではない。内存的のものである。としたら彼等の批判的態度も大いに革(アラタ)める必要があらう。
右の如くであるから、本教にしては批判の場合外廓だけをみて、現当利益本位だから世俗的信仰だと決めて了おうとする、不親切な軽率さである。之を改めない限り百の批判も意味をなさないといってよかろう。故に本当に本教を検討すれば判るが、本教は世俗的信仰でもあり、理論的宗教でもある。未だ嘗て人類に経験のない超宗教と言ってもいい。そればかりではない、本教の主張は独り宗教に関するもののみではない。医学も、農業も、芸術も、教育も、経済も、政治も人事百般重要な部門は悉く対象としてをり、最高の指針を与へてゐる。之を一言にしていえば、信仰即生活の理論を如実に表はそうとするのである。
(栄光七十七号 昭和二十五年十一月八日)