迷信の定義などとは、今日迄余り言はれない言葉だが、実は迷信にも定義があるのだから面白い。迷信でないものを迷信とみるのも一種の迷信である。善いと思ってする事が悪い結果になるのも迷信の為である。効かない薬を効くと思って服むのも、それを人に勧めるのも同じく迷信であり、肥料をやるよりやらない方が、沢山穫れるに拘らず、肥料を施すのも迷信だからである。悪い事をしても知れないと思って、網に引っ掛かるのも迷信の為であるが、但し之は頭へ愚がつくのである。重役や役人が隠れてうまい事をしたと思っても暴露し、罪人になるのもそうであり、又子供の教育を厳格にした方が立派な人間になると思ったのが、思ひもつかない不良児になる事がある。之も教育の迷信である。
斯んな事をかくとキリがないし、此位で判ったと思うが、茲で可笑しいのは、易者や暦やオミクジ等の些々たる事を、迷信として大袈裟に取上げるが、成程之等も迷信には違ひないが、僅かな迷信で問題にはならない程である。斯んな小ッポケなものにこだはる為に、反って前述の如く大きな迷信に気がつかないのであらう。
そうして、宗教に就て言えば、宗教にも迷信と正信がある訳だ。即ち正信七分迷信三分のものもある。かと思えば、迷信七分正信三分のものもある。これなども前者は七分の正信で感激し、三分の迷信を抹殺して了ひ、後者は三分の正信によって七分の迷信を抹殺して了ふ。世の中の神仏を信仰する人々は、殆んど右の類であると言っていい、処が之を反対に見るのが唯物主義者であって、両者の迷信のみの面を見てそれを誇張し、迷信として排撃して了ふジャーナリストやインテリは、斯ういふ側の人が、多数を占めてゐるやうだ。
此様な訳で、絶対の迷信もなければ、絶対の正信もないのが真理であってみれば、先づ宗教でも他の如何なるものでも批判する場合迷信の分子よりも、正信の分子が多ければ多い程、価価ある訳であるから、充分炯眼を開いて誤らなきを期すべきである。迷信の定義とはザッと以上の如くである。
(栄光七十四号 昭和二十五年十月十八日)