前述の如く、本療法は実に霊医術であり、特に「心臓医学」とも謂ふべきもので、心臓が根本になるんであります。そして前にも、お話致した通り、病気が発生するといふのは霊的原因としては、自己の邪念や不純行為により、魂に曇を生ずるからであります。
茲で、病原に対して、霊的定義を下してみませう。
『病気とは- 人間の悪念及び悪行為に因る罪穢の堆積が精霊を曇らし、それが、血液の溷濁となるので、その汚血を、心臓と肺臓が、燃焼と洗浄作用をする結果、それの残渣が物質化して毒血となり、膿汁となり、それの排除作用が、即ち、病気現象である』
魂は「人間の小雛形」ともいふべきものであるから、魂の方の胸のあたりへ曇が発生すると-心を通じて精霊へ移り、肉体へと映るのであります。
図に記きますと、左の通りであります。

曇が、内部より外部へ表はれるものは-自己的病原であります。
然るに、他動的に、外部からの原因による事もあるのであります。 例へば、人から、怨まれたり、羨やまれたりすると、それ等の人の悪念が「一種の曇」となって、此方の魂へ来射し、曇らすので、それが病原となる事も多いのであります。
然し、右二つの原因は、いづれも霊的であるが、それ等の外に「体的の病原」もあるのであります。それは-、大酒を飲むとか、娼婦に接するとか、極端な不摂生をするとかによって病気になるのであって、之は一般世人のよく知ってゐる処であります。
洋漢医学の病原説は、殆んど此体的のみの解釈でありました。
然し、之は再三述べた如く、表はれた半面であって、他の半面-即ち、隠れたる霊的原因こそ、真の病原であるので、此認識のない限り完全な治療法は確立しない事は申す迄もありません。
今一つ有力な病原として“祖先の罪穢”に因るそれを説かなければなりません。 祖先の罪穢とは-、絶えず祖先が霊界に於て「霊の浄化作用」を行はれる結果、その残渣ともいふべき汚濁が「子孫」即ち吾々へ流れて来て、それが病気となるのであります。
吾々個人とは、実に、祖先と子孫との間をつなぐ処の“一連の鎖の-その一個”に過ぎないのであります。
故に「祖先の行為」が吾へ結果し「吾の行為」が子孫へ結果するのは当然であります。
坊さんの持ってゐる数珠は「祖先代々の魂の繋り」を表はしたもので、あれを揉んで、お経を奏げると「祖先各々の罪穢」が、その功徳によって浄化消滅するといふのであります。
大体、病原なるものは、前述の如く数種あるのであります。そうして、それ等曇の排除作用が病気であるから、病気が発生するや-、曇の物質化である処の「水膿毒血」は、極力外部へ外部へと排除されよふとするのであります。
それはちょうど天然現象と同じようなもので、風邪を引いて咳をし、痰を吐く事など、ちょうど大風が吹いて穢を払ふ、大雨が降って汚れを洗い流すのと同じ理であります。
故に、凡ゆる一切の物象は絶えず汚濁され「断えず、浄化作用が行はれてゐる事が原則である」のを知らなくてはならないのであります。
之を別な意味からの定義にすれば、
『病気とは-健康保持の為の、又は、死を免れしむる為の不断の浄化作用の苦痛である』
このやうに人間は-
『病気によって、健康保持が出来、病気によって死を免れるのである』
と聞いたら、現代人は驚倒するでありませう。然し、今日迄それに気付かなかっただけであって、病気といへば直に不治を連想し、死を予想して恐怖して来た事の、如何に大きな誤りであったかが知られるのであります。
(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)