森羅万象は三つの原素から成立ってゐる。之に放れてゐるものは一つもない。
火、水、土の本体は、日、月、地なり。
今の学説では、星は太陽より上にあり、と唱ふれど、これは太陽より上の星は絶対ないので、月より下と月より上とある。
星には火の星と水の星とあり、水の星は青白く、六 水 となる。火の星は赤い、五 火 となる。
即ち、五六七は火と水と土といふ事になる。五六七は六六六となり、六が三つ故三六となる。このうちの一つが下へ行って、五六七といふ形になる。これは非常に神秘のある事である。即ち、一つが下へ行って土となった事は面白いが、今説明は出来ない。
緯の火水土は
霊--霊気 火
空--空気 水
現--物質 土
すべて物質は土から出て土に還元する。
吾々が住んでゐる全体が物、空、霊密合してゐる。経も緯も決して別々ではない、ピッタリ密合してる。物質の中に空気あり、空気に霊気あり、緯の働きになってゐる。緯の三段を人類は知らなかった。
火と水といっても、火のみでなく水のみでもない。火の中に水あり、水の中に火あり、たゞ水は水が主であり、火は火が主である。水は火なくば氷塊なり。氷がとけて初めて動く。故に、火と水はどっちも放れてゐないもので、共同作業である。
人間でいへば夫婦と同じ事、陰陽である。人類は夫婦があって持続してゆく。 空間の火と水(調和)といふものが、此治療に非常に関係がある。
昼--明
夜--暗
之も陰陽で火と水になる。
(火の場合)昼は火主水従
(水の場合)夜は水主火従 夜は月が出る。
月は氷塊である。昼は太陽が支配する。
人類は今迄緯の三段を知らなかった。それは夜だった故である。日がなかった、隠れてゐた。霊気の世界を知らなかった。
日本は明治以前迄鎖国を叫んだ。徳川の天下がなければ、フィリッピン等大いに海外発展してゐたものをといふ人がある。所が時期が昼になってゐないため絶対鎖国した。夜の時代故、国威を外国へ及ぼす事は出来なかった。これは天地自然の理だが、明治になってから自然に世界へ知れてきた。ペルリなど来て日本の存在を世界へ知らした。
これは夜の故で、昼になるとどうしても世界を照してゆかねばならぬ。日本の知られざりし如く、霊気の事は知られなかった。
人類は霊気の世界を知る事になる。私は極先んじて知った。
霊界は火が主
空気界は水が主
人間は三つの原素により成る。
肉体-現象-土(骨皮など)-三
水分に属するもの-水(医学では七十%ありといふ)-七
人間の霊-火(之がはっきり分らぬ)-十
故に人間は霊と体で生きてる。カラダに霊止まりてヒトになる。霊は肉体と同じ形。
肉体が使用に堪へなければ霊は脱ける法則になってる。サック壊れれば霊止まれぬ。例へば負傷して何升か出血すると、霊は肉体に止まる事が出来なくなる。
彼世(未来) 生死
-------↑--↓-- 死の関門
現世 死生
霊界はどこにあるか、吾々が呼吸してゐる所にこのまゝ霊界は存在する。今肉体が歩いてる時、霊体は霊界を歩いてゐる。故に、斯ういふ霊界にはいろんな霊がゐる。こんな話をせられてゐれば、霊界の霊は何万となく来て聞いてゐる。そして私の声を霊は聞いてゐる。中には聞けないのもゐる。諸士に憑ってその耳によって聞いてゐる。死の前知人に霊が別れに行く例がある如く、霊界に起ったのが現界へ従ふ。故に、霊界と人間の霊身は非常に重大なものである。故に、人間は始終霊界と現界を往き来してゐる。
霊界は大体浄化作用をする所、人間が現界でいろいろ罪をつくって曇が霊身に非常にたまる。あまり曇のひどいのは人間になれず畜生道へ行く。
再生 人間が人間に生る。
転生 人間以外のものから人間に生れる、畜生などより人間に生れ代る。人間は畜生のやうな心行をもつと、それ相応におつる。猫、犬、鳥など、スパイや探偵など犬に、だませば狐。獣は苦しむから罪がゆるされる。そして人間に生れる。これを転生といふ。
現界の死は霊界で誕生といふ。極楽へ行く霊は誕生祝をする。
楽を奏し、花の咲いてる所へ皆で迎へる。これはよい往生する人などがみる。綺麗な着物をきて、音楽を奏し、大勢の人が駕篭や御輿をもって迎へに来る。そしてそれにのせ、かついで行く。
霊は無限に新しい霊が出来てる。
神仏を信ずるといふ霊は古く、神代の時代に何度か生れた霊である。神は普通の人間の形をして素晴しい不思議な力をもってゐた。そういふ記憶があるから信仰し得る。神といふものがなくなってから生れた霊は神の事が分らぬ、神の経験がないから分らぬ。信仰さす事が出来ぬ。一寸神の話をしてピンとくる人は、神の経験があり、全然通じぬ人は其後に生れた新しい霊である。
どんな人でも罪を犯さぬ人はない。何もわるい事をしないといふ人も、どんなに罪を犯してるかしらぬ。キリスト教など、女をよしと思っただけで姦淫の罪を犯した事になるといふ。つまり心の罪だが、これは幾分か罪になって溜るが、一方で非常に良い事をすれば消せる。悪い事をしなくとも良い事をする人は少い。そういふのがなかなか曇となってたまる。そういふのは霊界で浄化される。
現界で執着のない人は霊界で速く浄化作用される。
二百年位霊界にゐなくては充分浄化は行はれぬ。
痛みは、-毒は一部へたまると共に固まる作用が起る。凡ゆるものは或程度固まると溶ける作用が必ず起る。
人間の霊体は大体光ってゐるもので、ボーッとしたやうな朧月夜のやうな光をもってゐるもので、その光が絶えず強くなったり弱くなったりするものである。善事を考へると光り、悪事を考へると曇る。丁度晴天と曇天の時のある如し。
霊体の一部に曇があると毒素があり、どす暗くなってる。自然なれば熱が出てとけ、下痢、嘔吐又は腫物等になって出る。痛みと熱は浄化の二大作用、これを光によりてとる場合、極濃い部分のみが残り、それは下痢などにて出れど、すでに毒素の力なく苦痛なく排除さる。
人間の霊体の光は、普通の人は一寸位出てるもので、病気になれば段々薄くなる。強い人は一尺も二尺もある。之は常人ではない。
曇生ずるは自動的と他動的とあり、自動的は罪による。体から曇る場合は薬剤。故に人間は元来病気がないのが原則で、病気は人間が作るものである。
毒素とは何か、霊的の罪穢から湧く。天然痘、尿毒、薬毒、此外にもあるが、大体三つと思へばいい。
天然痘-紅潮色の豆粒の如きもの簇出し、そこから膿が出て治るもの。結核なども、瘍、疔など大体天然痘の毒。
小便は水分の汚いもの、汚い物を水分にして出す働き、汚い物は大体毒素である。栄養にならぬもの、毒の処分機関。
食物の毒は腎臓で消せるが、服むべからざるものの毒は消せない。人間は薬を服むやうに出来てゐない。八、九消化すると一、二残って溜り、脊髄を通って頭へ行き、顔面、顎などへも行く故、尿毒といっても原因は薬毒である。故に、薬毒、天然痘、尿毒はそれぞれ混合してゐるのである。
圧して痛むのは薬毒、非常に痛いのは注射の毒、尿毒の痛みは激しくなく鈍痛が多い。総じて西洋の薬は強烈である。天然痘のはあまりに痛みはなく痒いのが多い。内部にある時は痛くも痒くもない。
治癒作用を病気といった。本当いふと病気はない、病むといふ事はない。
血液が循環すると共に霊も非常に活動してる。血液は奇麗の上にも奇麗でなくてはならぬ。奇麗なほど健康によく、又非常に朗かで元気横溢せるは血清らか、血が濁ると人間は元気がない。血清らかなれば循環早く、早ければ身体の活力の熱強く出る。故に寒くない。血の濃い人は身体重く、頭重い。血液奇麗になりつつ一とこへ毒が集り、それが固まりきる。それを出いいやうな薄さにする。それが白帯下、鼻汁、痰等である。化膿とは薄く出易くなる事である。出易い穴をとめるから出難い所から出んとする。
従来の療法は、病気の原因をとらず、治病作用をとる。その為先づ毒をのんだ。又服むと死ぬ薬を注射した。レントゲンでその部を殺して、その組織を破壊する。 蛋白とは腎臓のまわりに溜ったものが滲みて出る。人間の内臓はすべて滲みるやうに出来てゐる。蛋白は小便に混った膿である。浄化作用は九分九厘とめ得るが、全部はとめ得ない。嘘故結局は駄目になる。故に絶対に治らぬ。
夜の世界水素
昼の世界火素
昭和六年六月十五日より霊界、空間に火の分子が多くなる。火は太陽から放射されてくるもの-即ち火と熱である。人体の曇に光と熱を放射すればとれる、消す。 霊界に火素が多くなると浄化作用が旺盛になるといふ事は、人間の霊体の曇がとれるのと同じ訳である。
本療法をする程光が強くなり、毒の塊がある場合自分で治す活動が起る。故に一寸の毒も排除されんとし浄化は旺盛になる。近来結核増加の根本原因は此点にある。われわれの方はもっともっと旺盛にする。
霊界に火素が殖えた。それを集注する方法を発見した。そして私を通じて治療士に伝達する訳で、之が即ち観音力である。人類を救はれる恵みの力である。いくら観音様でも霊界が夜では出来ない。霊は霊界に属し、火素の世界に属してる。昼の世界に属してるからこういふ治療は生れた。今やうやく昼になりかけた所、昼になるにつれて益々治るやうになる。今に一寸手を触れただけで治る事になる。
治療法
先づ頸腺及び頭へ手を宛ててみると、どんな人でも必ず熱がある。擦るのに力を入れては不可、出来るだけ細かく何ケ所も、幾度もする。一ケの霊体を治療する気持、皮下一寸も二寸も奥を擦る気持でする。指も同様中の方へ放射する気持でする。
疫痢で目の吊上るのは極悪性で、疫痢の上に死霊が憑くのである。 執着がないと霊界に落付ける。執着が深いと浄化作用の中途で罪が未だ残ってゐるまゝ落付かず、生れるが罪が未だ残ってゐるから非常に不幸で、不具だとか心がゆがんでるとかして生れる。故に死ぬ時は現世に心を残さぬ方がよい。又死ぬ人の近親者は一時は悲しんでも、その悲しみを長く残してはいけない。何故かといふと、生きてる人の執着が影響して早く行く所へ行けぬ。故に悲しみは成可早く無くした方が、死んだ人の為によい。故に霊と体といふ事が非常に肝腎である。此療法を本当に知るには霊体の関係を知る事が根本である。