大本教の出口王仁三郎聖師が記された『霊界物語』という大著述がありましてですね、これがすごく面白いのですよ。ボリュームが膨大過ぎて私は10巻も読めてないのですが、実は全巻ネットで読めるのです。ホントにサイト運営者には心から感謝いたします。なんならYouTubeには全巻の音声読み上げもありますからね。で、『霊界物語』を読むうえで気をつけないといけないのが、ものすごくスサノオ様を持ち上げて書いてあるんですよ。これは実は仕方がなくて、出口聖師自身がスサノオ様の御魂だからなんですよね。だからあんまり自分のことを悪く書いてない。明主様のスサノオ様への言及とかみてると、全然印象が違うんですよね。そこだけ注意して読まないといけないです。
それでね、霊界物語を読んでわかるのが邪神は全員正神に化けるのですよ。もうホントにこればっかりです。邪神が醜い邪神のままいるってのは一柱も出てこない。ぜーーんぶ、邪神は正神に化けて、それで本当の正神の方でもコイツは本物なのかニセモノなのか分からない。ウーーンて言ってるうちに邪神の口車にコロッと騙されて、大事な宝玉とかまんまと奪われちゃうんです。そんな話ばっかりです。もうワンパターンすぎて毎回またかよと思っちゃう。それで正神の方もお人好しで、邪神と見破ったら牢獄に放り込んで縛り上げるとか切り捨てるとかすればいいのに、なんでか無罪放免みたいな感じで放しちゃうんですよ。改心せよって言って放すんですが、邪神の方は改心せずに正神は裏切られてばっかりなんですよね。それで膨大な数の身内の被害を出すのです。よく悪人は善人を鍛えるためにあるとか言うように、邪神も正神を鍛えるのかもしれないですけど。もっと読み進めていけば正神の力強い場面に出くわすかもしれないですが、ホントに最初の方はこんなシーンばっかりです。
それでね、実はこれは物質世界である現界も同じなんですよ。悪党が悪党のままのさばっているなんてほとんど無いでしょ。現実世界の悪党もみんな善人の仮面を被ります。で、みんな騙されるんですよ。これでもかというほどキレイに騙される。最初から正体を見破れてたら、こんなに世の中地獄のようになってないですよ。ルックスが良ければ良い程、口から出てくる甘言が甘ければ甘い程、気持ちよーく騙されちゃう。『減税はしません!でも全家庭に5万円ずつ給付します!』なんて甘言を聞けばですよ、え!?5万円くれるの!!ラッキー!!と次回選挙も自民党に投票しますよ。イチコロですよイチコロ。コ〇ナワクチンの時でも旅行券くれるって言われたらみんなルンルンで行列つくって摂取したでしょ。私はなんてお安い命の値段なんでしょと傍から冷めた目で視てましたけど、そんなもんですよ。
皆さん偉い人が大好きすぎるんですよ。社会的に色んな肩書というかレッテルが大好きなんです。そのレッテルが嘘かホントかはあんまり興味がないんですよね、それらしく見えればそれでいいのです。伝説のショーンKさんまでいかなくとも、帰化人であることを隠してる政治家の人多いですよね。別に帰化人の方を差別するつもりはないのですよ。日本のことを愛してくれてるマナーのいい帰化人の方は大いに結構ですよ。いくらでもようこそいらっしゃいという気持ちです。日本に対して一ミリも敬意のない売国的な帰化人に対してノーセンキューグッバイと言いたいのですよ。帰ってくれ、たのむから帰ってくれと言いたいのです。どうして好きでもない国に我慢しているの??変態なの??と思うのです。大好きな母国に早くお帰りなさいと愛情をもって進言する次第なのです。
で話を元に戻すとですね、どうやればニセモノを見破ることが出来るのかというところを御教えに求めていきたいと思います。救世教での善人の定義とは何か。それは見えざるものを信じることのできる人間を指すと、明確に明主様は御教えくださっています。つまり善人とは信仰のある人間と言い換えることが出来るのです。そこで、信仰が無くても良い人はいますよだとか、信仰してても癖の強い人はいますよというように、すぐ頭をよぎることでしょう。しかしですね、実は話はここで終わらないのです。ここで重要なのは信仰とはどういうことなのかというのをしっかり見直さないといけません。以下にとても重要な参考となる御教えがあるので、それを御紹介します。
景仰P563 細かいところに気をつけろ
ある日、明主様は、つぎのように御教えくださったことがあります。
『信仰っていうと、神様へお詣りしたり、お願いごとをしたりすることだと思っている人が多いが、そんなことは第二で、こまかいところへ気のつくようになることが第一だ。大きな堤も蟻の穴から崩れるって譬えもあるように、こまかいことが出来なければ大きなことは出来っこない。お陰話を見ても、これはわかるだろう。実にこまかいところまでお蔭をいただくものだから、こまかいところまで気をくばるようにならなければ、信仰は落第だ。大本のお筆先にも”気配り、心配りが第一であるぞよ”とあるが、こまかいことを注意しないのを神に呆けるというのだ。』
ですから、うっかり手抜かりがあれば、もはや”神様の試験の落第生”になってしまうわけです。
(側近奉仕者)
つまりですね『信仰』=『他者への思いやり、気配り、心配り』であると明快に御教えくださっているんですよね。で、なぜこうなるのかということを解説するとですね、以下のようになるんですね。つまり、信仰とは神の御心と一致すること、神の御心とシンクロすることなんですね。辞書でも引いて調べると直ぐに、信仰っていうと神への祈りというようにでてくるんですけどね。この祈りというのは神と一体になるとか、神の御心と一致するとかそういうふうに神学的には考えるんですよ。それで、『神の御心』とは何かというと、それはいつも明主様が言われているように『全人類の救済』なんですよね。なので神の御心と一致するとはどういうことかというと、神と同じように『人を助ける、人を喜ばす、人に尽くす』という気持ちになりなさいということなんですよ。そしてものすごく細かいところまで気が付くように気をつけなさいということなんですよね。例えば、人に何かお願いしたい時でもぶっきら棒にお願いするんではなくて、『アナタにこういうことをやってもらえると私はスゴクうれしい』などという言葉を一言添えるのです。明主様のエピソードでも、叔母様の太田れいさんが思い違いか何かされて明主様の御仕事の邪魔になって『ちょっと部屋から出といてください。』と言われる話があるのです。でもそのあとちゃんとフォローを入れて『オバサンね、私はオバサンのこと大好きなんですよ。でもあの時は仕事の都合上ああいうふうに言ったんで、けっしてキライじゃないんです。』みたいなことを言われるんですよね。そういうふうに言われたら悪い気はしなくなりますよね。明主様はそういう気配り心配りがすごかったんですよ。だから誰からも敬愛されて心服されたのです。
ですから、改めてまとめると『信仰』=『他者への細かい思いやり、気配り、心配り』が第一であると御教えくださっているんですよね。そして、これが出来ない人間は信仰の落第者だと言われているのです。ものすごく耳が痛い聖言ですよね。私なんかでも、最初は物腰柔らかく明主様の御心に適うように気配り心配りというように思っていても、一回その人をキライになるとググっと我が出てきて信仰を忘れちゃうんですよ。愛が薄い点があるんです。それで話は戻りますけれど、目に見えざるものを特別信じてなくてもですね、『他者への細かい思いやり、気配り、心配り』を第一に生きてる人間は自然と神仏と御心が一致してるんですよね。これは明主様の『私物語』にそういう記述に書いてあります。無信仰時代、神仏に手を合したことはないけど心の底には信仰が出来上がっていたという話です。ということはですね、カタチだけ神仏を拝んでいるようなカッコウをしていても『他者への細かい思いやり、気配り、心配り』が欠けていれば、それはもはや信仰者では無いということなんですよ。ニセモノであるということが見破れるのです。
逆に、カタチとしては神仏を拝んでいなくとも『他者への細かい思いやり、気配り、心配り』を胸に生きている一般人は、立派な信仰者であると言えるのです。これが出来ている経営者、ビジネスパーソンは現実でも成功し発展するのです。顧客のニーズを的確に把握して、最適なソリューションを提供すれば世間から引っ張りだこになるのは当たり前なのです。ただ、やはり神仏の願いとしては人類の永続的な発展を願われますから、低俗なソリューションではダメなのです。一時的な成功で終わります。買い手良し、売り手良し、社会良し、永続性良しなソリューションを提供できるビジネスパーソンがいたらそれはもはや立派な信仰者であると思うのです。それは神様の御心にバッチリ適うからです。
そしてこれは売り手買い手だけの話ではなく、身内に対しても同じです。以下の御教えを御紹介します。
お伺い
『如何にして進めば人はついて来るでせうか。』
明主様御垂示
『ついて来なくちゃおれないような行なひをする。その人を敬まふ――此の人について行けば将来間違いない。中心は誠で、その人を幸せにしたいといふ――一番の幸福は人を幸福にする幸福で、懇切に指導して、親切にしてやる。言ってしまえば訳ないが、なかなか行なふのは大変である。一番簡単になれるのは、人がついて来るようにしたいといふ心持である。すると自然に行ないに出る。すると神様に気に入られ、可愛がられ、特別御守護があり、思った事を実現してくれる。それはとても可愛がられる。弥勒様は大変な御力で、どんな御力でも出る。』
『一番の幸福は人を幸福にする幸福』この一文がしれっと出てくるんですけど、私は初めてこれを見たとき衝撃を受けたんですよ。しかも『一番の』ってなってるんですよね。この世界をデザインした全知全能の主神がサラっと『一番の幸福は人を幸福にする幸福』と言われるんですよ。これはたまげたと思いました。どんだけ偉そうな世にいう成功者がたいそうなスピーチをしてたとしても、これには及ばないなと。この一文に出会ってから、一時的な成功者なんてものは一発パチンコ当てた兄ちゃんとあんまり変わらないんだなと感じるようになったんですよね。もちろんちゃんとした社会に貢献する成功者もいらっしゃるのは重々承知してますよ。
昭和二十三年御光話
『私はよく言ふんです。偉い人になってはいけない、有難い人にならねばいけない。』
このようにですね、世間並みの感覚とは180度違うことが良く分かると思うんですよね。『偉い人』というのは神様の信仰と真反対に位置することが良く分かるのです。偉そうにしてるとか、承認欲求モリモリだとか、思いやりに欠けるとか、ぜーーんぶニセモノです。ピョンピョンウソピョーンです。そんなこと言いだしたら全人類ニセモノになると思われるかもしれないですが、要はそのようにあろうと向上しようとする姿勢ですよ。明主様もそれが大事と言われています。私が思うに屁理屈コネてクズのまま居直ろとする輩が多すぎるように思うんですよね。屁理屈クズ、賢いクズ、クレバークズ、なんかピーンとくるネーミングが浮かばないですけど、要は天邪鬼系のクズですよ。
それで、見破った後にどうすればいいのかというと、大事なことはいつも明主様が言われているように『やっつけてはいけない。』ということなんですよ。やっつけて退治してはいけないんです。それでいて『凌辱、蹂躙されてはいけない。』ということなんですよ。騙されてコロッと信じて、人生を台無しにされては絶対いけないということなんです。キッチリ自分というものを守らないといけない。善人のフリしたニセモノは意図してか無意識かを問わず、平気であらゆるカタチで善人の精神、生活、財産を凌辱、蹂躙しにかかってきます。そういうものからキッチリ自分の身を守らないといけないんです。ちゃんとNOを突きつけないといけない。そうでないと先方もつけあがって罪を重ねて可哀想なんですよ。
では最後にまとめますと、善人のフリしてる偉そうな人を見かけたら、そいつはニセモノのクズです。見破ったらキッチリ自分の身は守りましょう。