昔から、よく人は病の器というが、之程間違った話はない。人は健康の器というのが本当である。それならば何故そういう事を言われたかというと、之には勿論訳がある、と言うのは、人間は実に病気に罹り易い。ヤレ風邪を引いたとか、頭痛がする。腹が痛い。咳が出る。腹が下る。何処かしら痛い。寒気がする。胸が悪いとか、其他種々な苦痛が発る。すると驚いて、ヤレ医者だ、ソレ薬だと言って大騒ぎをする。
然し簡単に治る場合もあるが、一寸した風邪位に思っていると、仲々治らない。その内脳炎とか、チフスとか肺炎などという重い病気になったりする。それもうまく治ればいゝが、下手をすると命に関わるような事になる。というのは、最初からお医者様には見当がつかない。だろう的である。それは確実な診断を下す程に、医学はまだ進歩していないからである。然し之等は急性の病気だが、慢性病や特に結核などになるとグヅグヅしていて仲々治らない。治るかと思うと又悪くなるというように繰返すので、どうしても長くかゝる。
それでも治ればいゝが、大抵は散々金を使って、苦しんだ揚句彼世行きというのだからやり切れない。それまでにお医者さんと薬と親類のようになって了って、縁を切る事など仲々出来なくなる。処が病気の苦しみばかりではない、仕事を休むから経済的打撃も大きい。サラリーマンなどは長年月休むので馘になり、収入も途絶えるという訳で、二重三重の苦しみとなる。何しろ近来医者や薬の治療代も高価で、仲々馬鹿にはならない。長引いたり、入院でもするようになると一財産位飛んで了うし、又運が悪いと命まで、フイになるのだから大変である。
此様な訳であるから、現代人の病気を恐れる事は実に甚しい。そこで官民共に病気解決に関する予防や施設などに巨額の金を使う事は大変なもので、今次政府が計画している結核対策の費用でさへ、最近決った額は八十七億円というのだから、何と驚くではないか。而もそれ程、巨額の費用を使い、官民共に大童になっているがサッパリ結核は減りそうもない。理屈から言えば減らなければならない筈だが、事実はそういかないと共に、全般的病気もそうである。ヤレ、チフス、赤痢、日本脳炎等々、近頃の世の中を見るがいゝ。何処も彼処も病人の氾濫は因より、病院は満員で、収容しきれないそうである。薬も足りないので如何様薬や、贋物が横行し、当局も弱っている事など新聞によく出ている。斯んなに迄しても病気は一向に減らないので、誰も彼も今日の人間は、病気恐怖症に罹っている。従って人は病の器などというのも尤も千万である。
処が、一度本教の信者となるや、病気は簡単に治り健康は益々よくなるから病気の心配がなくなる処か、伝染病など問題にならない。何故なれば、伝染病程雑作なく治るものはないからである。だから黴菌なども恐しいとも何共思わないという事だけでも、実に現代の奇蹟であり、其幸福たるや世界中恐らく類があるまい。而もそればかりではない、人の病気まで治せる術を授かる事である。実によく治る。信じられない程である。
処が之を聞いた第三者は曰うのである。何十年も掛って学校を出たり、色々の実験を重ねたりして、一生懸命修業して来た専門家に治らないものが、素人の癖に三月や半歳修業した位で、お医者の見離した病気が治るなんて、そんな馬鹿な事があるものか、斯んな理屈に合わない話をするなんて、頭がどうかしている。全くインチキ宗教に騙されているんだから可哀想なものだ。迷信邪教程恐しいものはない。もし本当にそうだとすれば、医者も薬も要らなくなるじゃないかという。此言葉は紋切型となっていて吾々の耳にはタコが出来る程聞かされている。成程それも尤も千万で、決して間違っているとは思わない。そこで一寸考えてみて貰いたい事はお説の通りだとすれば、年々病気が減って、ヤレ伝染病の予防だ、注射をしろ一々消毒もしろ、黴菌に注意せよ、外から帰ったら手を洗へ、含嗽をしろなどと面倒臭い事は、段々言う必要がなくならなくてはならない。又医学衛生が本当に立派なものとすれば、国民の健康は年々良くなり、病院に蜘蛛の巣が張るようにならなければならない筈である。
処が事実は其逆であるのは一体どうした事か、又真の健康体となれば、大抵の黴菌は身体へ侵入しても発病しない筈である。何故なれば黴菌が侵入しても、発病する人としない人があるに見ても明かである。即ち発病しないのは真の健康体で、抵抗力が強いからである。だからそういう抵抗力の強い人が段々殖え、消毒の手数も年々減るようになるのが、真の医学衛生の進歩でなくて何であろう。処が不思議な事には斯んな判り切った理屈に、誰も気が付かない事である。実に割り切れない話ではないか。然しその原因は吾々にはよく判っているが、それを詳しく話す事が出来ないのは洵に遺憾である。何よりも吾等の説通り実行すれば、誰でも健康者となり、病人は段々減る事は太鼓判を捺しても間違いない。そんな立派なものなら何故早く世の中へ知らせないかという疑問が起るであろうから、それを左にかいてみよう。
今日の社会制度は近代文化が基本となって形成されたものであって、曩に説いた如く、近代文化は根本が唯物主義の建前である以上偏重的で、唯心文化に対する反動的とも言えよう。此文化を無上のものと心得、凡ゆる機構を作ったのであるから、それに欠陥のあるのは当然で、吾々のいう中正文化との喰違いもある訳である。そうして何より間違っている事は、此唯物文化は結果というものを余り見ないで、方法のみを重くみる。之が最も不可解な点である。此事を知って近代文化を検討すると実によく判る。
其点、一時的結果で物を決めようとする短見的考え方である。先を見ずしてホンの目先だけで決める。例えば熱が出ると氷で冷す、処が熱が出るという事はどこかに出るべき原因があるからで、それに気が付かない。気が付いてもどうしようもないのかも知れないが、殆んど末端のみを対象とする。よく医学を対症療法というが、全くその通りである。又不幸な人を救う為、社会事業に一生懸命になっており、鳥の羽根募金や何やかやで金を集めているが、之も結構には違いないが、実は其方法たるや根本を逸している。不幸な人が出るという事は、出るべくどこかに社会的欠陥があるからである。従って、その欠陥を無くしさへすればいゝのである。それより以外根本的解決の方法はないが、現代人はそれにも気が付かない、之も対症療法と同様末梢的方法でしかない。
右は、唯二つだけの例であるが、今の文化は凡ゆる点が其様になっている。何よりも文化が進歩したと言い乍ら、到る処不幸が充ち満ちている。それらの原因である内面的欠陥、それを吾々は神様から、徹底的に知らされたのである。神様は一日も早く、一人でも多くの人に知らせ、目を醒(サマ)させ、本当に幸福になる社会を作れという御思召である。そうして病人のない貧乏人もない。戦争などもない理想の世界を目的として進めと言われるのである。何と有難いではあるまいか。それでは今迄何故もっと早く、神様ともあろうものが、それを知らせなかったかと言うだろうが、それには色々の深い訳がある。それは本教の信者になれば、段々判ってくるのである。
(世界救世教早わかり 昭和二十五年十一月二十日)