医療は病気を治すものではなく、一時抑えで、実際は病気を悪くする方法だという事はいつも唱えているが、左記の例はそれをハッキリ表わしているので、これを読んだら誰でも成程と思うであろう。この様な恐るべき理に気が附かず、相変らず医学に迷信してる現代社会は、何といっていいかその無智蒙昧に驚かざるを得ないのである。これを一言にしていえば、現代は文化的野蛮時代というより外に言葉はあるまい。
悪質の眼病いつしか癒えて
東京都 I.M
幼少の頃よりの眼病いつしか癒され、光明と希望に満ちてる毎日を尊い御聖業の一端に御奉仕させて戴く喜び、唯々明主様に有難うございますの御礼を申し上ぐるのみでございます。現在のこの身の幸を思うとき、暗黒の世にあえぎ苦しんで来た二〇年間の思い出が浮んで参ります。生まれると間もなく胎毒の為目が悪くなり、毎朝目脂に閉され、母親がなめて目脂を取ってくれたとのことです。水や湯で洗ってもなかなか取れず、取っても後から血が吹出て来る為なめて取ってれたのだそうです。解毒剤を五週間程のみ漸く治ったとの事でした。肩の張り頭の重いのは子供心にも覚えて居り、九歳頃はよく母親に肩をもんでもらった事をおぼえて居ります。今にして思えば目の御浄化の折何も手当をせず放任して置けば自然に治癒し後で又苦しむ事が無かった事と思います。
小学校高等科一年の夏、大島六ヵ村小学校の水泳大会に出場の為八月毎日の様に練習致して居りました。大会の朝登校中突然目が痛み出し、両眼開けている事が出来ず、医者へかけ込み治療を受けましたが楽にならず、大会にも出場出来ず医師より目薬をもらい家に帰りました。帰宅後は特に痛み何か目の中に入っている様に感じ、母に見てもらいましたところ、上下まぶたの表面のうすい皮がむけてよれているとの事、取去って後しばらくすると又よれて痛んで参ります。目薬を差しますとそれが一層はげしく、取っても取っても皮がむけて来るのです。五日間程は目を開けて物を見る事が出来ませんでした。一週間目頃からどうやら物を見る事が出来る様になり、学校へ行ける様になりましたが、それから後は太陽の光がまぶしく、天気のよい日は目を開けている事が困難でした。目薬は医者からのは一週間、ロート目薬は一ヵ月位使用致しました。
小学校卒業後Y師範の受験の折身体検査で重症トラホームであると言われ落第、この折はじめてトラホームなる病症である事を知りました。その後東京月島の或鉄工所に勤める様になり、その夏隅田川の汚水作業で終了後毎日の様に泳いだところ又々目が痛み出し、九月より夜学へ通学不眠も加え益々悪化、昭和一七年一一月頃より東京京橋のA眼科医院へ通院する様になり、以後二年半一日の休みとてなく全治させたい一心で通って居りましたが、通院日数が増すにつれ目は一層悪化するのみにて、目は赤くただれ、時には腫れ、又はかすみ、それと共に頭は重く、人と面と向って対談する事は如何にもつらく、人中へ出るのもいやになり、心の底までも暗くなってしまいました。手術も数回しましたが変化無く、終には角膜実質炎と言われ眼球に網状のものが出来かすむ様になってしまいました。視力も〇・一までになり失明するのではないかと如何ばかり心配した事でしょう。何とかして治りたいと新聞雑誌等に目薬の広告が出ていると必ず取よせ使用してみましたが何の効果も見られませんでした。医師に聞いても「貴方の目はたちが悪いから長くかかります。その内に良くなりますよ」との事、「その内に良くなる」これのみをたよりに二年半通い続けたのです。昭和二〇年三月一○日東京大空襲の折A眼科医院も焼け、引続く空襲に目どころではなくなり、その折より目の手当を止めてしまいました。然るに今までの苦しみが漸次うすらぎ、一ヵ月後にはほとんど苦痛が無くなり、視力も出て来まして四月二五日、石川県金沢へ入隊する頃は大変良くなって居りました。九月一三日復員、大島へ帰らず静岡県駿東郡K町の姉のところへ帰って来ました。
復員後眼病の再発を感じ居りましたところ、姉よりF町のT先生のお話を聞きすすめられるままに姉とT先生のところへ参りました。当時は治療時代で先生は患者の半裸体の上に手を振り又はさわり治療して居られ、当時の私には異様な感じでした。お話を伺って居ります内に今までの医療とは一八〇度の違いでありますが真理の様に思われ、又私自身の体験からしても、医学療法で現在に及び未だ治癒せず、医薬を止めてから稍々良くなった事等を思い合わせると今までの治療法が間違っていたという事を感ぜずには居られませんでした。先生は「目の悪くなる原因は頭と頸と肩に原因があり、そこを治さなければ目は治りません」と言われます。私の肩は子供の頃から悪く、頸も頭も同様立くらみ等毎度の事ですので、成程だなと思いました。その日は御浄霊して戴き、『明日の医術』の御著書第三篇をお借りして帰り、拝読させて頂くに今までの常識と異なるのに仰天、お伺いの度に第一篇第二篇をもお読みさせて頂きました。医学の間違い薬の恐ろしさをつくづくと感じさせられ、一〇月一三、一四、一五日の教修会に参列させて頂き、S先生より尊い御守を御下げ戴き拝受させて戴きました。以後七年微力乍らも御聖業に御奉仕させて頂き、やがては盲目の悲しみに泣く我が目も何時とはなく癒され、報恩感謝の念に燃え希望に満てる日々を過させて頂いて居ります事を厚く御礼申し上げます。
御恩の万分の一にもお報いさせて頂きたく努力して居ります。入信以来数々の御守護を戴いて居ります事を重ねて厚く御礼申し上げます。御礼御報告の延び延びになり大変おくれました事をお詫び申し上げます。
明主様有難うございます。
(昭和二七年一〇月一六日)
(世界救世教奇蹟集 昭和二十八年九月十日)