宗教と科学

宗教と科学とは今日迄別個の存在のように扱われて来たが、之は大なる誤りである。実は万有は科学に漏れるものはないと共に、宗教に関係のないものもない。何となれは科学と雖も、宗教とは切っても切れない存在だからである。それに気付かなかったという事は、今日迄の宗教の説方(トキカタ)が余りにも浅かったからであるという事は数百年又は数千年以前には、今日の如き文化の進歩がなかったからで、其時代の人間に深遠なる理論を説くと雖も、到底理解出来得ない訳で、総て神の意図は無益なる事を人をして行わせないのである。然るに、現在科学の進歩程度は、今一歩で神霊の分野に突入せんとする迄に到ってゐる以上、神霊問題に対し科学的説明をなすとも、現代人に理解させ得る事は敢て難事ではないからである。以上の意味に於て、今日迄長年月の間固く鎖(トザ)されてゐた処の神秘の扉を私は開扉しようとするのである。私は科学者ではない。いわば科学のアマチュアである。その私が科学を説くのであるから誤りがあるかも知れないが、多少の参考になり得るとすれば幸いである。

抑々近代科学の中(ウチ)で、電気程人類文化に貢献しつつあるものはないであろう。実に凡ゆる方面に渉って電気の恩恵は今更呶々(ドド)を要しないが、もし電気が停止されたならば文化が停止されたと同様であろう。全く現在は電子時代である。然るに今次大戦の終末に際し、突如として米国によって発明せられたのが、彼の原子爆弾である。世界は此一大怪物に遇って瞠若したのは申すまでもないと共に、之によって終戦を早めた事も勿論である。実に原子破壊の偉力を最初に表わしたものは、多数の生命を一瞬にして奪う事であった。がこれが進歩によって、反対に人類文化に如何に役立つべき偉大なる発明となるかも、予想し得らるゝのである。そうして電子時代の次の時代を劃すべき運命を持って生れたのが、この原子破壊であろう。とすればその原子時代の次に来るもの、それは何であるか、私の唱える霊子時代又は神霊時代ともいうべき、最高度の文化時代であろう事も想像し得らるゝのである。

右に就て私は左に解説してみよう。先づ火と水の原理に就て述べてみるが、最も端的にいえば、火は水によって燃え、水は火によって流動するといふ事である。もし火がなければ万有は一瞬にして氷結する。それと反対に水分がなく火のみとなれば、一瞬にして此大地球も爆破する。此原理こそ原子爆弾のそれである。即ち原子核に向ってウラニュウム又はプルトニュウムの如き原素を放射する時、原子核にある水素が零となると同時に爆発する。その小さなる爆発が周囲の原素を誘発させ、次から次へと大きな拡がりとなり、大爆発となるのである。此理に由ってウラニュウムでなくとも、水素を零とすべき強力なる放射線でさえあれば、同様の効果を奏する事は当然である。そうして今日原子核破壊の原理は一個の原子核を取巻いているエレクトロンなる原素に向って放射能が攻撃破壊するというのであるが、私の考えに依れば原子核は放射能に依って原子核にある水素を零とするので、これが破壊の原理である。然し乍らこの原子破壊の原理も停止することなき科学の進歩に依って近来プロトン説となり、アルファ粒子の発見に迄進んでいるそうである。

次に霊子時代であるが、それは先づ宗教が中心とならなければならない。茲で私は右の三時代を宗教的に解釈してみるが、先づ電気であるが、電気にも霊と体があって、体は電光で、電燈の光がそれであり、霊は無線として活用せられ、ラヂオもテレヴィジョンもそれであって、人間の声が何千里先まで音波となって到達するという事は、言霊界の力動に外ならないのである。次に原子界であるが、此界の体は原子核破壊という発明によって発見されたが、霊は科学的には未知であり、宗教的に言えば想念界である。次は霊子界であるが、此界の体は中位以下の諸神諸仏の霊が活動し給う存在であり、此界から発現したものが既成宗教で、宗教に種々の段階あるのは神霊仏霊に段階があるからである。次は霊子界の霊界(私は幽玄界と名づける)である。此幽玄界こそ、最尊最貴の神々が御座(オワシ)まし枢要する経綸を行はせ給うのである。以上説く処の三段階の其上に坐すのが、独一真神即ち万能の神とも申し、大宇宙の主神で被在(アラセ)らるゝのである。此主神に対しては、之を表現し奉る言辞もなく、文字もなく、唯だ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根元であると申すより外はないのである。

次に私は、神仏の救済と罪穢の本質に就て科学的説明を試みてみよう。抑々世界には大中小種々雑多な宗教があるが、何れの宗教と雖もそれぞれ神仏諸霊が人類救済の意図の下に、霊界から御手を差伸べてをり、現界に於る因縁ある人間を通じて、救済の業(ワザ)を行わせらるゝのである。勿論その根本は主神の御経綸による事であって、或時代、或民族、或地域、或期間、救の業を委任され給うたのである。畢竟するにそれはその地域に罪穢が堆積し、文化の進歩に支障を及ぼすべき程度に立到ったからである。そうして昔から宗教の建前として、人間不幸の原因である罪穢の除去をされたのであるが、然らば罪穢とは何ぞやといえば霊的には、個人としては霊の曇りであり、社会的にいえばその地域の霊界の曇りである。又曇りとは何ぞやといえば、水素中に発生し、生活してゐる一種の毒菌であって、之は常に増減しつゝある極微の粒子で、到底顕微鏡によっても見得ない程のものであるが、之等毒微粒子は悪の想念と悪の行為によって発生し、増量し、それが人間の苦悩の原因となるのであって、反対に善の想念、善の行為によって滅減するものである。曇が或程度増量するに従い、自然浄化作用が発生する。それが小にしては人間の災厄や病気となり、大にしては飢病戦の小三災、風水火の大三災ともなるのである。然し乍ら右の災厄を出来るだけ小にし、又は無災となし、不幸をより軽減せしめんとする活動が、神仏の大愛から発する霊光であって、その媒介者として出現されたのが聖者、聖雄、宗祖等で、其下の取次者が各宗の宗教家であり、天使でもある。そうして救いの場合、神仏はそれぞれ其時代の人間に適応せる教義や方法を採(ト)らせ給うのである。

前述の如き毒微粒子を消滅する原素は勿論火素であって、眼に見えざる光であり、それによって浄化作用が行われるのは、恰度日光によって殺菌するのと同一の理である。此事を今一層徹底すれば斯うである。宗教の教又は祈りによって光明を受け、今迄眠ってゐた魂が目覚め悔改め、善を想い善事を行うに至り、魂の輝きによって毒微粒子の衰滅となるのである。

以上は宗教の科学的説明であって、是に到っては唯物科学もなく、唯心科学もなく霊体一致の科学であり、今や来らんとする高度の文化時代の科学の真相を、私は簡単に説いたつもりである。

(信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)