夫婦の道

近来、見合結婚が良いか、恋愛結婚が良いかは、相当喧しく論じられてゐる。然し乍ら之を霊的に解釈をする時は、どういう訳になるかを説いてみよう。我国は都会は固より如何なる山間僻地と雖も、必ず鎮守様即ち産土の神様が鎮まりゐます産土神社又は氏神様がある。之は恰度現界に於ける区役所のようなもので、人間社会に於る冠婚葬祭は固より、出産等に至るまで、産土の神様が担任されておらるるのである。昔から子が産まれるや、必ず御宮詣りに行く習慣があるが、之は子供を授けて下さった神様に御礼詣りをするのである。之と同様結婚に於ても産土神が男女を結合させるので、其際恋愛による場合と、見合による場合と、孰れも産土神の思召によるのである。然しそれを知らない人間は、人為的に成立するものと思う為、世間に沢山ある夫婦喧嘩の末、「貴様出て行け」などと言うのは、如何に間違ってゐるかという事である。折角神様の思召によって結ばれた妻であり、夫であるものを、人間が勝手にどう斯ういう事は、神様に対して甚だしい無礼となるではないか。如何に気に入らぬ夫でも、気に入らぬ妻でも、縁があって神様が決めて下さった以上、疎かに思う事は申訳ない訳で、有難く感謝すべきである。故に其事を知って、感謝の心を持って見直したならば、好い妻であり、好い夫であると、思えるようになる事は請合である。

今一つ重要な事があるが、それは子供の死であって、その原因たるや夫の不品行に基くのである。例えば妻以外の女との関係がそれで、此罪は重大であって、殆んど死に価する程のものである。而も世の中には妾を二人も三人も、中には拾数人に及ぶものさえあるという事を聞くが、実に恐ろしい事である。之等の罪を霊界に於る祖霊は非常に怒るばかりか、子孫繁栄の妨げとなり、罪の重さによっては一家断絶の不幸に陥る事さえあるので、祖霊は極力止めようとして凡有る手段を尽すが、なかなか目覚めないものである。而も罪は益々増大する以上、早くその罪を贖わなければならない。それは主人たるべきものが責任を負うべきであるが、そうなると家族の生活や将来に悪影響を及ぼす事になるから、祖霊は主人の身代りとして子供を犠牲に供するのである。此様な事は世間にあまりに多いものであるから、読者諸士は注意を払われたい。必ず思当る事がある筈である。

そうして夫婦喧嘩の主なる原因は第一が妻君の嫉妬、第二は生活難であろう。故に前述の如き霊界的事情を主人が認識するとしたら、嫉妬の原因は無くなる訳で、夫婦は神様の御意志で結ばれた事や、妻以外の婦人関係は重罪に当る事を確認したならば、良き夫となり、良き妻となり、夫婦円満にならざるを得ないであろう。私は、決して夫婦円満にする為の作話ではない、事実長年に渉り幾多の経験と相俟って、神様から教えられたものである以上、一点の嘘はない事を断言する。

聖書の中から右に関した教を左に記してみよう。
○神の合せたるものを、人たるもの離すべからず。
○人は其妻に合ひ、二人の者一体となるべし。
○汝の妻をもて足れりとせよ。
私は此一文を世の既婚者諸君に呈するものである。

(信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)