前述の如く、誤謬から出発した医学は、全然病気の真因も健康の要諦も未知であるから、病理の説明などは全然コジツケとしか思えない。即ち漢方医学に於ては、病気とは五臓六腑の不調和からといひ、西洋医学は「黴菌の侵犯である」とされてゐる。之を吾等からいえば、前者は反対である。五臓六腑が不調和としたら、浄化作用発生の力が出ないから、発病はしない訳である。又後者は微生物の侵犯というが、それも一面の理はあるが、微生物の侵犯のみが病原ではない、黴菌に関係のない病原も沢山ある。又黴菌が侵入するや、発病するという事は、健康体ではないからで、真の健康体なら黴菌が侵入しても病気発生はない筈である。近来非常に黴菌を恐れ、黴菌防止に苦慮し、凡ゆる方法を施行してゐるのは、真の健康体が少なく、黴菌侵犯による発病者が大多数であるからである。吾等は之を別けて、前者を真健康といひ、後者を擬健康といふのである。然らば、如何なる原因によって真健康と擬健康との区別が生ずるかを説明してみよう。
前項に述べた如く、折角自然浄化作用発生するや、医学は之を反対に解釈する為、極力鎮圧する事を可とし、凡ゆる方法を行ふ。元来浄化発生といふ事は人間が健康であるからで、弱体であれば浄化力発生はないのである。例えば、人家に塵芥が溜るとする、家人が健康であれば掃除が出来るが病人ばかりでは掃除が出来ないのと同様である。勿論浄化作用は苦痛が伴ふので、それを間違って解釈し大病の発端のように恐怖し、一刻も速く止めようとする。それには浄化力を微弱にする事で、それには弱体化しなくてはならない。即ち先づ薬剤を用ひる。元来薬なるものは一つもない。全部毒である。之は薬物学者はよく知ってゐる。即ち先づ毒によって衰弱させやうとする。近来注射が流行するのは其為である。之は毒が強烈であるから呑むと中毒を起すので皮膚から注入するのである。其他絶対安静も氷冷も湿布も、悉く衰弱法である。光線放射は折角溶解し始めた毒結を元通り否それ以上に固める。此様に凡ゆる衰弱方法の為注文通り、浄化は微弱となり、毒素は浄化発生以前の固結状態に還元するから一時的苦痛がなくなる。之を病気治癒と錯覚するのである。然し治癒でない證拠には暫く経つと再発する。之は折角固まった毒素が、健康恢復によって再び浄化作用が発生するからである。すると又しても衰弱法を行ふ。即ち薬毒使用であるから漸次、薬毒は累加する。
茲で薬毒に就て概略説明してみるが--前述の如く、病気の原因が固結毒素の浄化作用であるとすれば、その毒素は一体何であるかというと、之が殆んど薬毒であるから驚くのである。即ち先天性毒素とは、祖先や両親からの薬毒遺伝であり、後天性毒素とは生れてから入れた薬剤である。此事実によって先天性毒素に後天性毒素が加はるにつれて漸次毒素の量は増し、多量の毒素保有者となる結果、一時に大浄化が起る。之が肺炎、脳炎や一切の腫物初め、凡ゆる重難病の原因となる。然るに医療は相変らず浄化停止を可とし衰弱法を行ふが、そうなるとよほど強力な衰弱法でなくては効目がない。此点医学はよく證明してゐる。それは肺炎の特効薬などそうである。其際医家のいふ言葉は非常によく効く薬でうまくゆくと短期間に治るが、まづくゆくと生命がないといはれるのはその為である。言ふ迄もなく猛烈な浄化を停止するには生命に係はる程の猛毒性薬剤でなければ効かないからである。
以上によって、病気は浄化作用である事、医療とは浄化停止方法である事は判ったであらう。故に一言にしていえば、医療とは病気を治さない方法で、医学進歩とは治さない方法の進歩である。故に医家は病気を治すとはいはない、固めるといふにみて明かである。勿論固める為には前述の如く衰弱法を行ふ。それが無理をしない事、風邪を引かない事、大切にする事、睡眠を充分にとる事、薬剤を成可用ふる事等々である。之が消極的健康で浄化微弱の結果、病気発生が少なくなるので、之を健康法と誤認したのが今日の予防医学である。
以上の如く消極的健康者を吾等は擬健康といひ、今日の青白いインテリや、腺病質の小児など此種の代表的人間である。何よりも今日の医学衛生を忠実に守る者程此種の擬健康者が多い事である。斯ういふ擬健康者に一度黴菌が侵入するや、必ず発病し、生命の危険に及ぼすのである。之が今日黴菌を極端に恐れる原因でもある。右に対し吾等の発見した神霊医学は全然右とは反対で病気発生するや浄化をより旺盛にし不純物を出来るだけ速に体外へ排泄する、従而真の全治であるから予後は罹病以前より健康は増すのであるから、黴菌が侵入しても発生しない健康体になる事は勿論で、これが真健康である。何よりの證拠は本教入信後数年を経たものは全然黴菌など問題にしなくなる。何となれば伝染の恐れがないからである。斯様な幸福こそ吾等のみに与えられたる神の賜といふの外はない。
以上の如き真医術の発見こそ人類救済の根本義たる事を知るであらう。
(自観叢書十昭和二十五年四月二十日)