一口に学問と言うが、学問にも生きた学問と死んだ学問とがある。というと可笑しな話であるが、判り易くいえば、学問の為の学問は死であり、学問を実社会に活用するのが生きた学問である。然し真理探究の為の学問は又別で、之は貴重なものである。
先づ学問とは何ぞやという事であるが、今日、大中小の学校に於て教科書を経とし、実地を緯として先生から教えられる。処がその教育方法は幾多の先哲学究が刻苦研鑚の結果構成され、今日の如き学問形態となったものである。勿論新発見や新学説が表われては消え、現われては打破され、其中の価値ある部分のみが、残存集積され来たったのは言うまでもない。其当時真理として受入れられ、金科玉条としていたものも、それ以上の新学説、新発見が現われた事によって跡方もなく消滅したり、又今以て生命を保ち社会人類に役立ちつつあるものもあり、一切は時がそれを決定するのである。
此意味に於て、現在絶対真理とし永久不変のものと確信していたものと雖も、それを破る処の新学理が何時如何なる人間によって主唱さるるかも分らないのである。処が、ともすれば新発見が表われた場合、其新発見なるものはそれまでの既成学理の型には当嵌らないのが当然で、当嵌らないだけ其価値がある訳である。一言にして言えば型破りでありそれが大きければ大きい程、価値が大きいのである。故に真理と思ったものもいつか葬り去られるという事は、それ以上の真理が生れたからで、斯くして止りなき文化の進展があるのである。
私は今一層掘り下げてみよう、それは既成教育は長年月に渉って構成された処の一応の整った形式が成立っている。処が文化の急速な進歩は、その固定的形式を非常な速度を以て切り放すのである。最近私は某大会社の社長某氏の述懐を聞いた事がある。その人曰く、「十年以上経った大学出の秀才も、今日では実際問題に当って適応しない事が多い。何となれば、その時代修得した学問と、今日の時代とは余りに隔絶しているからで、いはば時と学問のズレである。技術家に於て特に然り。」である、というのである。之等をみても、私が曩に述べた如く、学理はその時代までを基準としている以上、その後進歩した文化の標準と平行しなければ、死んでしまうのである。
之に就て今一つの例を挙げてみよう。それは今日の政治家は、非常に型が小さくなったと言われる。つまり肚の大きい、腹芸をやるような政治家は殆ど見当らない。此頃の大臣は機略など薬にしたくもなく、ただ当面発生した問題のみを処理するに汲々たる有様で、肚が見え透いていると言われる。之は何が為であるかというと、今日の大臣級は官立大学出であり、古い学理に捉われ勝で、何事も理屈一点張りで行るからで、理外の理というものを知らない。恰度自動車の走っている時代に、馬車を曳出すようなもので、馬車の操縦は習ったが自動車は知らないと同様であろう。全体、学問は人間の頭脳を開発し、或程度の基礎を作るもので、いはば建築なら土台である。その基礎の上に新建築を打建てる、即ち学問を活用し、進歩せしめ、新しいものを作るのである。日進月歩の文化と歩調の合う事である。否それ以上前進し、指導的役割を果す、それが生きた学問である。彼の米大統領、トルーマン氏が、千九百二十一年頃は小間物雑貨商人であったとは、彼が最近の言明で、之によってみても彼の実社会的経験が、今日あるに至ったのである。
私は十数年以前から、医学に関する新学説を唱え、それを著書として発刊するや、忽ち発禁となった、三回までも発禁となったので、やむを得ず今は諦めている。それは現在の医学とは凡そ反対の説であるからとの理由に因るのである。処がその実績に於ては、現代医学の治病率に対し、私の方は数十倍の効果を奏する事で、而も一時的ではなく根本的に治癒するのである。之は一点の誇張もない事実で、著書の中にも「実験には何時でも応ずる」旨を書いておいたに拘わらず、当局も専門家も一顧だも与えないので、どうしようもないのである。
抑々医療の目的は凡ゆる病患を治癒し、人間の健康を増進させ、寿齢を延長させるという事で、それ以外に何の目的があろう。如何に学理を云々し、唯物的施設や、機械的巧緻を極めると雖も、右の目的に沿わない以上、何等の意味もない事になる。私の説が只だ既成医学の理論と異るの故を以て、何等の検討もせず、無関心であるという事は、文化の反逆者たる譏は免れまい。而も政府が、それに絶対の信を与えている現状であるから、現代人こそ洵に哀れな小羊というの外はない。
以上に述べた如き、大胆極まる私の説は何が故であろうか。私と雖も狂人ではない、絶対の確信がなければ発表し得る筈はない。全く今日進歩したと誇称する医学には、恐るべき一大欠陥の伏在している事を、私は発見したからである。此発見こそ今日迄の如何なる大発見と雖も比肩するものはあるまい。何となれば人間生命の問題の解決程重要なものはないからである。故に此大欠陥に目覚めない限り、現代医学は有用な存在ではない事を断言するのである。翻って街を見る時、誤まれる医学によって重難病に呻吟しつつある憐れな者が如何に氾濫しつつあるかは、何人も知る処であろう。之等を見る時、吾等は到底晏如してはいられないのである。茲に於て私は今の処、此誤れる医学に一日も早く目覚めさせ給えと神に祈るのみである。
(自観叢書十二 昭和二十五年一月三十日)