動脈硬化と高血圧の原因は、二者似て非なるものであるから、別々に説明してみるが、動脈硬化は薬毒が体内の動脈附近に固結し動脈を圧迫する場合と、毒血が動脈の或部分に滞溜固結する場合とであり、後者の方は段々毒結が集溜しつつ膨脹する。これが動脈瘤である。この毒血は薬毒と今一つは肉食による血の濁りが原因であるから、こういう患者は薬をやめ、菜食にすれば案外早く治るものである。
次の高血圧の原因は、左右顎下の凝りの為であって、こういう人は平常文字をかくとか緻密な手の業をする等の原因が多く、査べてみればよく分る。しかし医学では高血圧は脳溢血の先駆としているが、これは誤で、間接的には幾分の影響はあるが、直接的にはないから安心して可なりである。以前私に血圧三百という人が相談に来た事があるが、この人は六年前医師に発見されて、注意を受けたが、生活上仕事を休む訳にゆかないのでその儘続けているが、何ともないので相変らず勤めているとの事であった。職業は筆耕書きで年齢は六十余歳であったが、私は心配ないから、その儘勤めていてもいいと言ってやった。
静岡県N・K
救われた喜びに拙筆も顧みず明主様に御礼申し上げます。私は○○楽器会社に長年勤務して居りましたが、昨年仕事最中急に眼が廻り、それから次第にその回数が増え会社の経営して居ります病院に参りました処「動脈硬化症」の由にて安静を旨とし休暇療養に努め、毎日が通院治療に変ってしまいました。その間注射、服薬を随分続けて居りましたが一向よくなりませんでした。そして、三、四ヵ月は瞬く間に過ぎてしまいましたが、会社経営の病院の事とて経済的には直接何の苦痛もありませんが働けない淋しさと毎夜不眠が続き、次第に不眠症となって参りました。その苦悩は言い知れないもので、何とかして早く治り出勤したいと思い、それは医師の言を忠実に守る事と考え、言われる儘に実行専念致しました。しかし結果はその逆で、日毎に不眠症はつのり、一寸の仕事をしても目眩がして来るのでした。この様にして居りましても会社では給料を下さり、毎月それだけは通院帰りに戴いて居りました。けれども働かない者を、そして世に何等の貢献なき者を神様は何時迄もその儘には許されなかったのでしょう。この時会社は医者に私の病状を聞き、医者曰く「動脈硬化症で治る見込はないが、今しばらく様子を見よう」と言われた為整理予定者となって一時はその儘になって居た様子でした。
それを知ってか知らずか有難いもので或月の給料を戴き、帰りに同じ会社のS様が「長く休んで居る様だが如何です……そういう状態でしたら……私は救世教に入信して居るのですが何とかなると思います」と親切に申して下さいましたので、私もその心に感謝し御願いして帰りました処、翌日私宅を訪れ種々御話し下さいまして御浄霊戴き、翌々日教会に連れて行って戴き、教会の先生に御願いした処、先生は延髄、肩、背中と悪い処を一々指摘され、御浄霊を終ってから精しく御話し下さいまして「この分でしたら必ず治りましょう」と力強く申され、何かと気強く感じました。
しかし帰ってから、あんな事をして果して治るのだろうか?薬の悪い事が大体分り、思い切ってやめて了ったものの、大丈夫だろうか?と不安が生じて来ました。
翌日は教会に行くのをやめて了い二、三日茫然として居りました処、又も親切なS様が見えられ、
S 「教会で御浄霊して戴いた時どんな気持でした、大変気持がよかったんですか」
私「気持はとてもよくて今迄にない気分でした」
S 「でしたら何故続けてやって戴かなかったんです。今迄医者に何回も治療を受け乍ら、この間の様な気分になれた事がなかったという事と比較して、浄霊すればよくなるという事が解るでしょう」
私「それはそうですが、掌をこうしてやっただけで果して治りますかねー。それに会社にも病院に通って居らないと工合が悪いし、毎月診断書を提出しないと給料の方がうまくないので、その方の関係もあって考え、あれから未だ教会にも行って居らないのです」
S 「そうですか、そういう訳でしたか。無理もありません。そう思われるのも当然ですね。私にしても会社に勤務して居る以上、会社の言う事も聞かなくてはならないしねー」
私「大丈夫でしょうか、両道かけた様な工合でそれで神様から御守護戴けましょうか」
S 「だって今としてはそれだけはどうする事も出来ないのですから、神様は或期間その状態を許されるかも分りません。兎に角今一回先生に相談して見ようではないですか」
私「それが心配だったものでしてねー。つい教会に行く事が心苦しく感じたので嘘を言ってしまった様な結果でした。では今から又行って聞いて戴けましょうか、ハハハハ」
S 「そうでしたか、それでねー。何だ案外気が小さいんだね。私より年は多くても、ハハハハ」
と会話は非常にほぐれたものに変って行きました。そして又早速教会に行き、先生に伺いました処、神様は自由無碍のお働きをなされる事等を話され、「それが悪いと人間で決める事も出来ないので、或事柄を決定ずけてやる事は危険である」と話され、「それは神様に御願いし、もし許されるなら御守護戴くし、間違って居れば御守護は無いと思いますから、人間としてこれでよいと思った時は兎に角御願いして御浄霊を続けてみる事です」と申されましたので、現在はそれによるの外ないので、それから毎日御浄霊を御願い致しました処、その度毎に眼から涙が多量に流れ出し、ハンカチで何回も拭 わなければならない程でした。
毒結が延髄に多量固結していたために不眠症となり、また目眩が起った事を聞かされ、日毎に快方に向いました時はほんとに嬉しくなりました。それから一週間程してからと思います。先生が「Nさん何か病気して医者にかかった事があるでしょう。こんなに多くある様ですから」と言われましたが、その時は思い出しませんでしたが、ずっと以前梯子から落ちてひどく後頭部と背中を打ち死にかけた事がありましたが、その時は医者に一寸かかっただけでした事を話しました処「その打撲個所に内出血したのが固っていたのと、体の毒が集溜固結していたのが浄化作用が起ったのかも知れない」と申されましたが、考えて見ればその打った個所が悪い個所と一致しておりました。
これより次第に私の不眠症は解消し、この頃は仕事を致しましても何ともございません。あの時S様が二回目に訪ねて下さらなかったら、まだまだ苦しんでいなければならなかったのに……御浄霊頂けなかったらどんなになったかと考えます時、明主様の御救いを感謝せずには居られません。又御導き下さったS様に御礼の言葉もありません。その後すっきりして自分では何ともありませんので例の様に医者に行き、白分の状態を話し、仕事が出来ますからその様診断書を出して戴くべく依頼致しました処「動脈硬化症は治らない事になって居るから、たとえその様であっても治ったのでは無いから出す訳に行かない。もし出勤して起った時は私の責任になるし、会社としても困るから」と診断書を書いてくれませんでした。現に私はどんな仕事も出来るのですが、実に情なく、この時から医学に対し憤激を感じました。私は、よし自分と同じ苦しみを味わって居るものがあるであろうから、その人達を救ってあげなければならない、と御守様を戴き、入信さして戴いた次第でございます。
そして二ヵ月後会社から話があり、行って見ますと、「貴方は動脈硬化症で医者は絶対治らないと言って居るし、それに停年もあと一年という処だから、この年度末に整理の中に入ったらどうでしょう。それに入れば普通の場合より退職金も率がよいから」と申されたのでした。
しかし私は「現在何をしても何ともないのですから働かして戴き度い」と申しますと、「でも医者が治る見込が無いと言うから出て戴いてもしもの事があった時困るから」と遂にそれを理由として整理者の中に入れられてしまいました。しかし私は生命を救われ、今迄の大変な誤りを知り、人を救う道に精進せよとの大神様の御教えと考え、むしろ自由の身をもって新な希望に燃え、新な人生の転換を計って戴きました事を想います時、只管感謝感激に満つるのでございます。何卒この上は一人でも多くお救いさして戴けます様、御守護の程御願い申し上げますと共に、厚く御礼申し上げる次第で御座います。
(昭和二七年五月一六日)
岩手県 Y・K
謹んで御礼申し上げます。御報告の遅れました事を深くお詫び申し上げます。今日元気で働かせて戴く事が出来ますのは夢の様で御座います。省みますと私は二、三年前から腎臓の気があったので少し疲れますとすぐ顔がむくみ出し、足がだるく、大変いやな気分で御座いました。一昨年の暮も急に右の腎臓部が痛み出し立っている事も出来ず、床についたきり二五日間寝返りうつのもつらく、毎日をいやな気持で過して居りました。家には老母と一四も年上の姉が居り、姉は今から一〇年位前腎臓を手術したのでしたが残った方が悪くなり、医者からもう駄目だと言われたのでしたが、その当時K町に出張して居られましたA先生の御浄霊を戴き丈夫になって入信させて戴き、光明如来様、御屏風観音様も御奉斎さして戴き救われて居りました。今では普通の人以上に家の一切をやってます。その姉に御浄霊をすすめられましたが、私は全然信用出来ず、むしろそれを反対しておりました。
処が今年の一月「右腎臓結核で手術をせねばならぬ」と宣告されました。私は医学を絶対のものと信じてましたので早速入院手術の用意も出来、二日後に控えた日に再びレントゲンを撮って見ました。処が入院前の写真が真黒だったのにその日の写真は何とハッキリと腎臓部が現れているではありませんか。医師も私も皆驚きました。医師は非常に不思議がり、「入院前貴方は何も手当しなかったですか」と言われましたが、終に「手術の要なし」と言われ何か気抜した様な感じが致しました。考えて見ても入院中一〇月間の水薬と散薬だけの毎日であんなに悪かったのがこんなに良くなる筈がないと考えていた私はハッと思い当る事が御座いました。それは入院する前一週間程M町に居られるA先生の奨めで、そんな事で病気が治ってたまるものかという気持で御浄霊を戴いたのでしたが、その時先生は「幾ら疑っても必ず貴方は手術をしなくともいい様になります」と言われた事を思い出し、神仏を信じない愚かな私が恥ずかしくなってまいりました。退院後早速入信させて戴き、今では元気に家事の手伝をさせて戴けますのも御明主様のお蔭と深く感謝致して居ります。
その後四月一一日の夜に母が動脈硬化にて危篤状態になり、兄弟親類皆集り、医者を呼び注射をしても動かなかった体が姉と二人で御浄霊させて戴きますと少しずつ動いて来るではありませんか。丸一昼夜死の状態にありました母が、翌日の午後には目も開き、口もだんだんきく様になって来まして、今では針仕事等をさせて戴く様になりました。御明主様重ね重ね御守護を賜わりまして有難う御座いました。今後はお道のため一人でも多く救わさせて戴き度く存じています。何卒宜敷く御守護の程御願い申し上げます。
(昭和二七年七月二五日)
島根県I・K
この度拙文を顧みず数多き御神徳の中より一端を御報告させて戴きます。私は去る昭和二三年より喘息と高血圧症で苦しみ続けて来ました。医師の診断により「血圧は二三〇もあり、脳溢血の憂が多分にあるから、服薬と注射及び採血により血圧の降下を計らねば危険この上もない」との事にて、血液を採って頂きましたら喘息が非常に苦しくなり、その苦痛は何にも譬え様もありませんでした。医師に話して採血はやめて服薬と注射を続けました。その後喘息の発作は益々激しくなり、医師に相談しても「注射で発作を止めれば血圧が上るから、なるべくその注射は控えよ」と脳溢血の注意を受け、年中喘ぎ悶えて居り、灸は背中に大きな穴があく程すえ、漢方薬その他民間療法、植皮手術二回等、ありと凡ゆる治療を施しましたが一向に効果はなく、発作の激しい時は二、三昼夜続いても止らず、今にも息が切れるかと思う様な苦痛にて、今は脳溢血も致方なしと意を決しエフェドリン、ボスミン等をうち、その苦痛より脱する事も再三ありました。その頃より一層頭痛、肩痛が苦しくなり、医者の門をたたき血圧を計ってもらえば二〇位上昇して居ります。故に薬で下げては注射で上げ、又下げては上げるを繰返しつつ、今より考えれば 全く馬鹿げた話です。毎月一回医師に血圧を計ってもらい、毎日服薬と注射を一年四カ月も続けました。一時は一六〇位迄下って頭痛も楽になりましたが、追々又元の如くなり、医師も最早「薬は効かぬから血液を採るより仕方ない」と言われましたが喘息の余りの苦しさに断って、もうこれ迄と覚悟をきめて居りました。その上力と頼む妻が二五年一一月頃よ坐骨神経痛で寝込んでしまいました。これも注射薬、灸と治療を加えましたが、一進一退にて効果は見えませんでした。
処が二六年三月、ふと救世教の信者の方より有難い教があると聞かされ、三月一五日その方に連れられてA教会へ夫婦連れにて喘ぎ乍ら参詣致しました。そしてS先生より御話を伺い、また有難き御浄霊を頂き、その折「明日より此処にて教修会があり、二人受けられる」との事でしたが、教修なるものが如何なるものや知りませず、上の空で聞き流して居りましたが、連れて参って下さった方より「それは好都合です。是非貴方方も入信してお蔭を受けなさい」と奨められ、早速御願いして頂き、翌日より夫婦揃って三日間の教修を受け、御守様を拝受致しました。不思議にも二回の御浄霊にてさしも悪性の喘息も以後発作が楽になり、日一日と快方に向い、その後二、三回浄化戴きましたが、その度毎に快くなり、五月頃には発作も止り仕事も出来る様になりました。妻も有難き御神徳により快くなり、これもその頃より仕事をさせて頂ける様になりました。今迄の暗黒の我家に一大光明が差込み、家も心も急に明るくなりました。これも偏に明主様の偉大な御霊徳の賜物と深く御礼申し上げます。
昨年五月一五日M町の月並祭に参詣した際の御話に「明主様関西に御旅行なされ、京都にて御面会が許される」と聞き、早速御願い申し上げ参加させて頂き、二八日出発致し翌三〇日私の不在中の出来事であります。息子が農耕に本年初めて牝牛を使って居りました処、何に驚いたか急に飛び出し、使手も初心者であり、又牛も不馴れにて制止も利かずあばれ廻って、遂に河(幅五尺深さ六尺位、底は岩盤)に落ち込んで倒れてしまったそうであります。「しまった牛を殺した」と生きた心地もなく飛込んでクラを外せば、牛も一生懸命に河より飛び上り「フウフウ」言って居たとの事で、不思議にもかすり傷一つ無く、歩かせて見てもなんの異常もありません。しかし妊娠中の為、体内の仔牛に異常なきやと案じ、隣村の獣医の宅へ連れて行き診察を受けましたが「何の異常もない」と言われ安心したとの事を帰宅後聞かされ実に冷汗の出る思いを致しました。嗚呼これが奇蹟でなくて何でありましょう。早速御神前に家内一同御守護の御礼申し上げました。大光明如来様、御屏風観音様を御奉斎頂き日夜絶大なる御守護を給わっております。
私は今では喘息の苦痛は物忘れした如く快くなり、血圧は今迄多量な薬毒の為か未だ下らず、頭痛は多少致しますが「脳溢血来らば来れ、何を恐れんや、我には大光明如来様の御守護あり」と固き信念にて、何もかも御任せした安心の境地にて、日夜農耕にいそしませて頂いて居ります。顧みるに一昨年、昨年、又本年と年毎に苦痛は去り、只々「有難や有難や」と絶叫するの外はありません。これも偏に明主様の御高恩の賜物と深く深く感謝するのみでございます。茲に謹みて御礼申し上げますと共に、御恩の万分の一なり共お願い致すべく、御聖業の御手伝に邁進させて頂く覚悟で御座います。
明主様有難う御座いました。拙文乱筆をもって御礼と御報をさせて戴く次第で御座います。
(昭和二七年三月一〇日)
高血圧及び動脈硬化症は中風に間接的に関係があるから、中風についての三例を挿入する事とした。
静岡県 T・R
私は昭和二二年一二月入信させて戴きましてより数々の御守護を頂いて参りましたが、この度脳溢血の御浄化を戴き、僅か六〇日余で起上る事が出来ましたので御報告申し上げます。
去る一月二四日、教会の自然栽培の座談会に出席の為、朝元気一杯自転車で教会へ伺いお参りを終りました途端前後不覚となり、自分の身体の仆れるのを半ば意識しながら御神前に仆れて終いました。
丁度同席された会長先生の御浄霊をいただき、一時間余に意識回復しました。今更ながら御浄霊の有難さを痛感致しております。お蔭様で心も落着き、オート三輪に乗せられ一里余の田舎道を我家に帰りましたが、大した疲労もなく床につきました。その後は一意光明如来様にお縋り申し上げ、教会の先生方はじめ信者の皆様の御浄霊をいただきまして「幾年かかるか判らない」との近所の噂をよそに、日一日と快方に向いまして、全く薄紙をはぐごとく便秘もなおり、多量の鼻血が出ましてからは非常に楽になりまして、不明瞭な発音も目に見えてはっきりして参り、発病以来四〇日目に床の上に起き上り坐る事が出来ました。更に五〇日目には物につかまって歩行出来る様になり、只今は六〇日余でありますが、不随となった右半身は感覚も整い、手足の運動も順調となりまして、食事は家人と共に楽しくおいしく戴けるようになりました。
全く夢の様な二ヵ月前を想い出し、若しもあの時、一時間否一〇分早く倒れたら一体どうなっていたかと思うとゾッと致します。教会の御神前で倒れ、直ちに会長先生の御浄霊をいただく事が出来た私は何という幸福者だったでしょうか。これも偏に明主様の御守護と絶対の御力の賜物と存じます時、ただただ感涙がこみ上げます。
明主様有難うございました。朝に夕に幸福感を味あわせていただいております。
(昭和二七年四月六日)
静岡県 S・K
この度大変御守護を戴きましたので、簡単ながら御報告申し上げ、あわせて御礼申し上げます。
私は三月六日に突然脳溢血をおこし、全身不自由な体となりまして両手両足がきかず、十四、五日位は食事も家族に食べさせて貰う状態で、全身が痛み、自分でどうなるのか分らぬ位でしたが、近所の御熱心な信者さんが毎日御浄霊をして下さいましたので、二三日目には立てる様になりました。その時の嬉しさは忘れられません。主人を始め家族一同「有難い」と喜んでおります。
立てる様になりましてはじめの三日間は杖を頼りに立つように致しておりましたが、四日目からは杖なしでも歩ける様になりました。それからは一日毎に目に見えてよくなりまして、今では杖なしで外に出られるようになりました。
私があまり早く治りましたので、近所の人達もビックリして、「どんなよい薬をのんだか、どんな注射をしたか」などと、尋ねる様な状態でございます。家ではまだ子供が小さいので、私が寝込んでおりましたら本当に暗闇でしたが、神様広大無辺なる御守護により、こんなにも早く起きられお救い賜わりまして、明主様ほんとうに有難うございました。厚く御礼申し上げます。
(昭和二七年八月一七日)
秋田県 S・Y
暗黒無明の地獄よりお救い頂き、一家歓喜の家庭にならせて頂きました。この偉大な又深遠なる明主様の大御恵は筆や言葉には現わし得ませんが、私共と同じ病貧争に悩み居られる世の人々に、一日も早く一人でも多く、救世主であられる明主様の出現を御伝えさして頂き、そしてお救い頂ければ幸と思い、ここにその一端を申し述べさせていただきます。
想えば今から一〇年前の昭和一七年二月のことでありました。この時より、幸福でありました我家に無慈悲な病魔が舞込んだのでありました。母が出産致してより産後の肥立ちが悪く入院致し、一一月に至るも何の効果もなく、下半身が不自由で起上る事が出来ずそのまま退院いたしました。それからというものは次から次と医者を替えて、あらゆる医療を尽しましたが遂に起上る事が出来ず、暗黒の中に呻吟する事四年、戦争は益々激しくなりF町の実家に疎開致しました。
私達兄弟三人は学校から帰ってまいりましても、母が暗い顔で床の中で休んで居られる姿を見ると胸がふさがる様な気持で、楽しく遊ぶことも出来ませんでした。祖母は心配の余りとうとう亡くなられました。「何と言う不幸でしょう。これが生きながらの地獄というものかしら」と母は毎日床の中で泣き暮したのでありました。
父が朝早く起き、馴れぬ手つきで食事の支度をする姿を見る時、私達はどんなに悲しかったかわかりません。友達の何の心配も無く遊んで居る姿を見て、どんなにうらやましく思った事でございましょう。
川崎から疎開してまいりました叔母も、又子供達も次から次と重病にかかり、全くお医者さんと親戚のようなものでした。それが大光明如来様にお縋りして先ず手の施しようもない重症と言われた叔母の子宮癌が癒り、子供の骨膜炎も癒りましたので、叔母は母の病気も治し度いものと一生懸命御浄霊をして下さいましたのが二四年九月の事でした。一週間致しましても何の効果もございませんでした。足掛八年間の業病がそんなに簡単に治る筈もないのでありますが、凡ゆる治療に手を焼いた母は、もうすっかりあきらめ切っていたし、治療に対しては自暴自棄的な心情で居たのでございました。
でも奇蹟的に自分の重病をお救い頂きました叔母は、何とかして母をお救い戴きたいと、一心にお念じさせて頂いて居りました。その一念が通じたものか御浄霊を始めて八日目の朝ひょっこりとN先生が訪ねて来て下さいました。叔母は自分が御浄霊を頂きたかったのを後まわしにして私の母を治して下さる様に頼んで下さいました。その内時間も来ましたので私達は学校に行ってしまいました。学校から帰ってまいりましたら、母が立って歩いているではありませんか。信じ切れずに、夢かとばかり驚いたのでございます。叔母から色々とお話を聞かして頂き、目に見えざる霊のため八年の長い間母が苦しめられていた事がわかったのでございます。その霊とは、実家の四代前の方で、母には曾祖母に当る方でした。二〇歳で祖父を生み産後死亡したそうで、これが血の池地獄と言う所で一〇〇年近い長年月苦しまれて居られたそうでございます。実家では仏壇もよくまつり、供養もよくやっていながら救われずにそれ程苦しまれるとは、今までの宗教では、とても霊の救いは出来なかったのでございましょうか。宗教的知識のない私には分りませんが、八年の業病が霊界で苦しんでいられる霊の救いを求める姿であった事をきかされ、一〇〇年の苦しみを只祝詞三回でお救い頂いた事実をきかされ、その結果として母は目の前で起ち上ったのでございます。何という偉大なる御力でございましょう。如何に科学が進歩しましても手の施しようもなきこの霊的な病気を、一時間で解決して下されました大神力には御礼のことばもございません。
八年間寝た儘の母は、足もなえ果てて全く小児の如く細くなって居り、膝頭が油の切れた様な調子でカチカチして思う様に歩く事が出来ませんでしたが、一週間目には汽車に乗ってO町の教会まで御守様をお受けしに行く約束をしたのでした。父や叔父達は、「そんな無茶な事をするな」と大反対致しました。N先生から「神様に御救いを求めて行くのに、どんな困難な事がございましても絶対御守護を下される」とのお言葉を頂いて居るので、母と叔母は行かねばならないとどこまでも頑張り、喧嘩の様な有様でございました。しかしこの時もまた霊が憑り、教修を頂く事の意義をさとして下さいました。これは祖母の霊でしたが、可愛いい自分の娘である母をお救い下さるため霊界から愛の御手を差しのべて下さったのです。この事実を目のあたりに見ました父もO町行を許して下さいました。
三日間の教修も終り、元気で帰って参りました。それから 一週間目に外へ一人で出て歩ける様になりました。なお一カ月目には一里もある所に遊びに行けるようになりました。それから間もなく妊娠致し、二五年の一二月可愛いい弟が生まれました。何という有難い事でしょう。八年間の業病がいやされ、かつ子宝まで頂くとは、近代科学では考えられぬ大奇蹟であります。
その後私も入信さして頂き、今はなんの心配もなく過させて頂いて居ります。「其頃を顧みすれば恐ろしも闇路杖なく彷ひし吾」の御讃歌が御座いますが、そのままの私達でございます。尊い御神恩に何をもってお報い出来ましょうや、凡人の私共には報恩の術も知らぬ有様でございます。世の人々にこの大奇蹟の事実をお伝えさせて頂き、尊いこのお道に、大神様の大愛に、お救い頂ける様に念願するものでございます
(昭和二七年八月五日)
(アメリカを救う 昭和二十八年一月一日)