今日医学に於ては病原は悉くといひたい程黴菌に因るとされてゐる。そうして微小にして顕微鏡でも見る事を得ない黴菌を濾過性黴菌と称してゐる。医学に於ける解釈は次の如きものである。
「感冒、ヂフテリヤ、百日咳、麻疹、流行性耳下腺炎等の病気は、泡沫伝染といふ事になってゐる。これは戸を閉め切った室内や乗物の中で、患者の嚏(クサメ)や咳嗽の際など、霧の如く唾と一諸に飛出し、空気中に浮游してゐるのを吸込んで感染するのである。そうして老人は比較的免疫になってをり、青年特に小児が侵され易く、患者に一米以上接近してはならない」といふ事になってゐる。斯様に殆んどの病気は黴菌に因るといふのであるから、これを信ずるとしたら現代人は生きて行く事さへ恐怖の極みである。
仮(モ)し医学が謂ふ如くでありとすれば、社会生活などは到底不可能であらう。先づ汽車、電車へ乗る事は危険である。隣の乗客は何かの伝染性病気に罹ってゐるかも知れない。窓を閉め切れば満員の際など少くとも数人以上の結核患者は勿論他の伝染性患者もゐるであらうから、空気伝染の危険は免れ得ない。又人と談話する事も危険である。先方は伝染性疾患を保有してゐるかも知れない。といって一々三尺以上放れるといふ事は実際上不可能である。其他劇場、映画館等多数人の居る所は危険千万である-といふ訳にならう。
故に、医学の理論を信奉するとすれば、先づ社会と全く絶縁しなければならない。即ち山奥の一軒家か、海上遙か沖合に出で船住居をするより他に理想的方法はないであらう。吾々が割合恐怖感に捉はれないで生活し得るといふ事は医学の説を丸呑みにしないからである。
そうして右の如き空気伝染以外一層危険であるのは、銭湯へ入浴する事は勿論、手指の接触による場合、即ち電車の吊皮、扉のハンドル又は貨幣であらう。特に貨幣が多数人の手指に触るる関係上黴菌の巣窟ともいふべく最も危険とみなければならない。之に就て左の如き調査報告を示してみよう。
「北大医学部衛生学教室阿部三史学士が、郵便局、銀行、市場、デパート、食堂、食料品店、個人等多く利用される処から十円札、五十銭銀貨、拾銭白銅、拾銭ニッケル、一銭銅貨等取り交ぜ三百四十五個を集めその銀貨なり、札なりに附着してゐる黴菌を研究した結果、左の如く大腸菌、パラチフス菌、葡萄球菌、コレラ菌、分裂菌等々、数へきれない程の黴菌が附着してゐた。これ等は何れも人体に害を及ぼすもので、殊に小さな子供等が、無心で銅貨銀貨等をなめてゐるなど大いに注意を要するものであり、一方多くの人は、銀貨、銅貨に、結核菌が附着してゐると思ってゐるだらうが、阿部氏の研究では結核菌は案外少く、人体に及ぼす程の偉力はないと言はれてゐる。
「各種貨幣の黴菌数」(昭和十一年六月調査)
先づ拾円札、五拾銭、拾銭、一銭各一枚にどれだけの黴菌が附着してゐるかと言ふと、
△拾円札には、普通黴菌が最高拾六万九千百五個で平均五万二千四百九十一個
△五拾銭銀貨には平均千五百五拾九個
△拾銭白銅には二千四百七拾個
△拾銭ニッケル白銅には二千二百三個
△一銭銅貨には千三十二個
等である。
「病菌の種類と数」
更に大腸菌、チフス菌、パラチフス菌等がどれだけついてゐるかと言へば-
△拾円札には五十四個
△五拾銭銀貨には四個
△拾銭白銅には 三個
△拾銭ニッケル白銅には 一個
△一銭銅貨には 四個
-等で、拾銭ニッケル白銅が他の貨幣より少い事は、発行されて間もない事によるもので、なほ一銭銅貨には比較的黴菌の附着数が少い事は、銅自身が持ってゐる殺菌性に依るものである。
「場所と黴菌数」
然らば、何処で使はれてゐる貨幣に最も多くの黴菌が附いてゐるかといへば、一番多いのが市場、次いで郵便局、日用雑貨品店、百貨店、食堂、菓子店、食料品店、個人所有等の順序になってをり、個人所有が一番少ないが、これは財布の中に入れられてゐる関係上空気が外部と異って流通しないため、附着した黴菌が培養されない為である」-
以上によってみても、貨幣には如何に多くの凡ゆる病菌が附着してゐるかを識るであらう。然し乍ら貨幣を手に触るる毎に一々消毒するといふ事は何人と雖も不可能である。然らば此問題は如何にして解決すべきやといふ事であるが、それは容易である。即ち病菌が体内に侵入しても発病しないといふ健康体になる事である。然らばその様な健康体になり得るかといふに、私の創成した健康法によれば可能である。然し乍ら、病菌は医学で唱ふる如く恐しいものであるかといふに、それ程ではない事を左の如き調査報告によって證し得るのである。
それは、昭和十年九月三日の読売新聞の記事によれば、「東京に於けるバタ屋即ち屑を扱ふ人間が一万二千人程居るが、市社会局では昨年十二月中旬、足立区を中心として認可のある屑物買入所所属の拾ひ子に就て詳細な調査を行ったが、二日その結果を発表した。それによると、あれ程不衛生な仕事に従事してゐながら、彼等の間に伝染病其他の病人の少い事は意外である。そうして調査人員二千四百十五人の中、女子は僅かに六十人の少数であった。調査人員の年齢は三十一歳から五十歳に至るものが一二九九人を数へて、全員の過半数を占めてゐる。健康状態は、慢性胃腸病患者が最も多く、次にアルコール中毒者といふ順序である。そうして、伝染病、肺結核、性病が割合少いのである。即ち二四一五人のうち、健康なるもの二一二三人、虚弱者八十五人、老衰者五十八人、不具者三十五人、癈疾八十五人、その他の疾病三十二人となってゐる。」
右の調査によってみても明かなる如く、病菌による伝染病は殆んど無いといひ得る程である。而も二六時中最も病菌に接触すべき職業者にして斯くの如しとすれば、その意外なるに驚かざるを得ないのである。
そうして一体此世に存在する限りの如何なるものと雖も、人間に不必要なものはない筈である。若し必要の為の存在であったものが人類の進化によって不必要となる時代になれば、そのものは自然淘汰されて滅消さるべきが真理である。故に人間が無用とか有害とかいふのは、そのものの存在理由が不明であるからである。即ち人類文化がそれを発見するまでに進歩してゐないからである。此意味に於て、凡ゆる病菌と雖も人類の生存上有用の存在でなくてはならない筈である。
抑々伝染病と雖も、他の疾患と等しく浄化作用であって、只だ伝染病に於てはその浄化が頗る強烈であり、従而、急速に生命を奪はれる為に人間は怖れるのである。然らば如何なる理由によって伝染病は強烈であるかを説いてみよう。
人体血液中の汚濁が或程度濃厚になった場合、汚濁の排除作用が発生する理由は既説の通りである。その排除作用を一層促進すべき必要が病菌の存在理由となるのである。
病菌が先づ食物又は皮膚面から侵入するや病菌と雖も生物である以上、食生活に依らなければ生命を保持し、種族の繁殖を計る事の出来ない事は他の一般動物と同様である。然らば病菌の食物とは何ぞやといふと、それは血液中にある汚濁である。従而濁血多有者程病菌の繁殖に都合の好い状態に置かれてゐる訳である。此理由によって発病者と未発病者との区別は、即ち発病者は濁血者であり、不発病者は浄血者であるといふ事になる。又保菌者といふのは濁血少量者であって、病菌が繁殖する程でもなく、死滅する程でもないといふ中間的状態である。
以上の意味によって病菌なるものは人間中の濁血保有者に対し、速かなる浄血者たらしめんが為の掃除夫ともいふべきものである。此のやうな有用微生物を、医学は強力なる逆理的浄化停止を行ふ以上、死を招く結果となるのである。それのみではない。医学は免疫と称して種々の伝染病の予防注射を行ふが、之が又人間の浄化力を弱らせ体力低下の因となるのである。
茲で注意すべき事がある。近来、膝下に小腫物の発生するものが多いが、之は、予防注射の薬毒が下降し溜結し排除されんとする為で、放任しておけば自然治癒するから何等心配する必要はない。
医学に於ては、白血球が赤血球中の病菌に対し食菌作用を行ふといふが、右の原理を知る以上問題にはならないであらう。又世人が非常に嫌ふ蠅なども、血液掃除夫を運搬するのであるから、彼も亦人間にとって重要なる存在であるがそれは現在濁血者が多いからで、将来浄血者が多数になれば蠅の存在理由が無くなるから自然淘汰さるる訳である。
私は伝染の名を誘発と唱へるべきが本当と思ふ。本療法は濁血者を浄血者たらしむるのであるから、本療法が普及するに従ひ伝染病は漸次減少する事は必定である。
(天国の福音 昭和二十二年二月五日)