時代と宗教

私は宗教なるものも時代と密接な関係のある事を知るのである。彼のマルチン・ルーテルが宗教改革を行った理由として、当時のキリスト教があまりにも形式に流れ、封建的色彩が濃厚であった事にもその原因があるであらふ。私は今日の凡有る宗教を検討する時、その内容に於ても形式に於ても余りにも旧套墨守(キュウトウボクシュ)的、時代錯誤的たる事実の多い事である。

一例を挙ぐれば、宗教行事や冠婚葬祭等に当って数時間否半日一日を要する事さへあるのである。又在家の居士の朝夕の読経や祝詞を奏し祈願をなす場合長時間を要したり、故人の法要や、本山本部に参拝する時、多額の費用と数日の時を費す等々、全く現代社会人の痛苦の種であらう。而も霊的知識を与へられない現代人として、その内容的意義を知らず、ただ伝統と気安め以外の何物でもないのである。

今日世に知られたる凡ゆる宗教が、数百年又は数千年以前発生したるものであるから、又やむを得ないであらう。彼の二千六百年以前、印度に於て発生した仏教が、当時の印度民衆の社会生活を対象として成ったのであるから、頗る浩瀚なる経文、長時間の瞑想、坐禅等々の修行によって覚者となるといふに到っては、今日の日本の社会生活に即して適応しない事は言ふまでもないのである。而も経文の原文は梵語であり、それを漢訳して渡来したのであるから、その意味が現代日本人に理解し得べくもないのである。巷間「経文は不可解であるから有難いのである」-といふ言葉さへ流布さるるに到っては全く驚くの外はない。

此意味に於て、私が作った善言讃詞は観音経の深意をエキスとし、日本的に祝詞の形式を採って数分間で読了なし得るやうにしたのである。そうして霊界の実相や、事物と霊との関係等を徹底的に解明し、神仏や祖霊に対する信仰の意義、想念の持方等を充分認識すべく教ゆるのであるから、神仏諸霊の満足と歓びを以て迎へらるる事は必定である。従而、観音会こそ今後の時代をリードすべき新宗教といっても過言ではないと思ふのである。

(昭和二十三年四月)